四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪近況とブログリニューアルに向けて≫

昨年秋以来、ブログ更新できなかった要因。

それは3つあります。

 

ひとつは仕事の疲労。交通誘導警備で国道沿いの狭小地のビル新築現場を職長として仕切っており、週6、遠距離通勤ではやっぱり疲れが取れないからです。

 

2つ目はネット記事やSNS上のやりとりの荒廃。キャンセルカルチャーに代表される、異論排斥の罵り合いと正義面した極論の横行、炎上上等の恥知らずどもの隆盛を前に、自身無関係とはいえ、こうして言葉を載せること自体あまりにも孤立し無力で虚しく思えてしまいました。

 

そして3つ目、生活も暗転するほどの打撃となった出来事が、老いた父の処遇をめぐる親族間トラブルでした。プライベートな話なので端折って言えば、頑迷な思い込みで言動が手に負えなくなっていた父の世話をどうするのか、という問題です。

 

むかし長く父の下で働いていた従兄弟が昨年父の面倒を見たものの、負担に耐えかねて私を訪ね解決を迫ったため、彼は賃貸物件を探し、時間の取れない私は入居関連費用の全額を出すという形で一気に動き、昨日ついに契約書類を完備しました。(従兄弟を信用しないわが弟は今回あえて巻き込まなかった。)

 

3日後成約予定ですが、この問題で揺さぶられた衝撃と、預貯金の大半が吹き飛んだ諸事情により、私の生活設計そのものが一変してしまいました。ギリ貧相とまではいかないにせよ、いまの現場が終わったら4年ぶりに行くつもりだった海外旅行などは即断念し、また地道にささやかに残高を増やしていく生活しかないだろうなと思っています。

    ★  

以上のような経緯から、いったん仕切り直しする形で、プロフィールの文面も更新して来月からブログもリスタートしたいと考えています。

 

このたびの老父の言動悪化もそうですが、私自身のかつての文弱な長期引きこもり・無業失業期も含めて、放 置 し た ま ま 延 々 と 時 が 経 つ パ タ ー ン こ そ 最 悪 の 対 処 法 で あ り ど ん 詰 ま り へ の 道 なのだ、ということを改めて痛切に思い知りました。

 

既に手遅れの自分は、かつての確執をことごとに蒸し返すいまの気まぐれな老父に怯えながら共に生きていかなくてはなりません。(住まいは別々ですが。)

 

しかし自ら痛い出費や交渉によって身内の難題に真正面から向きあったことで、社会復帰や生活自立の個人的課題を超えて、世間並に本物の修羅場に自分も身を投じる段階までついに立ち至ったのだ、と戦きながらも深い感慨に満たされたことも確かです。

≪鉄骨建って日は落ちて≫

毎朝9時に現場前へラフタークレーンをつけること約3ヶ月。

 

連日国道1号上へ規制帯設置のかいあって、狭小地に8階建てのスリムなビルの骨格が無事立ち上がりました。両隣の専門学校より頭一つ高くなり、今は屋上(R階)までデッキ敷きと配筋も終わり、順次スラブ上に生コンを打設して床の部分を作っているところです。

 

鉄骨建方は、前もって精密な立体的設計のもとに工場で一本一本製作された柱や大小の梁など(形は似ていても寸法や向きや穴の位置がそれぞれ違う)を、現場で吊って組み上げる順番に大型トラックで運んできます。当現場は特に狭いため、建て逃げといって、まず奥の方から鉄骨を最上階まで組み上げてしまいます。次に現場内の敷鉄板を全て撤去した後、今度はラフタークレーンを歩道から前面道路まで大きく張り出した状態で停め、手前側の鉄骨を組み立てていくのです。(建方全体でちょうどひと月かかりました。)

 

そのため、交通誘導的には、あとになるほど歩行者や自転車の車道への切り回し(迂回誘導)が難しくなります。大型の重機が眼前に居座って見通しを悪くしている上、音もうるさくて歩行者などへの声かけや身振りが通じにくいこと。さらに、建方が上へ進むにつれて鉄骨揚重時の危険範囲が広がり、また部材を仮置きするための路上スペースも必要で、歩行者を安全に通せる余地が極度に狭まってしまうからです。

 

ところで、これは建方を終えた現在でもそうですが、交通誘導警備のメンバーの多くは、建築現場の作業内容にはとんと無関心です。

昨年まで職長を務めた聖マリ医大病院現場でもそうでしたが、元請けの監督や各職長との打ち合わせや連絡を欠かせない私の立場と、半常駐的なサブや増員メンバーとでは、責任の有無はもとより、工程や搬出入車両への対応力、資材の名称・用途に至るまで、認識や知識に差がありすぎるのです。

 

だから、たまにベテランの常駐経験者が来ると、わずかな指示でさらりと役割を果たしてくれて助かりますが、数年やってもダメな隊員は結局いっつも肝心な所でぼおっとしているだけなので私が駆けずり回って対処しなければならず、週6でこれが続くとボディーブローのようにだんだんと心身にこたえてくるわけです。

 

そんなわけで、せっかく私の好きな澄んだ秋晴れ(刻露清秀)の季節がやってきたのに、仕事に疲れて記事の更新もままなりません。次回はぜひ写真つきで、紅葉散策か、8月に友人と登った北アルプスの山のことでも書きたいと思います。

≪2009年、16年、23年のリターンマッチ≫

猛暑未だ収まらず、国道1号に面した横浜の極狭新築現場の交通誘導警備は、資機材の準備で朝から早くも汗だくです。

 

これまで2ヶ月にわたって、地下躯体工事に伴う山留材や仮設材・鉄筋・型枠の揚重のために前面道路に張り出していたのは20tラフタークレーンで、そのオペレーターは女性でした。自らSNSで発信もしているだけあって、到着時間は正確だし、各職種との連携も良く、操作も落ち着いていて終始一貫 好感のもてる人でした。とりわけ酷暑だった8月には、たびたび冷凍ペットボトルを差し入れてくれて、そのつどネイルの色柄が鮮やかだったのもよく覚えています。

 

今は地下躯体工事が終わり、いよいよ鉄骨建方が始まります。クレーンは一段と大きくなり、鉄骨を運んでくるトラックも当然大型車なので、一車線潰す道路規制もこれまで以上に危険を伴う、緊張した誘導になります。

 

   ★ 

 

……さて、はるか昔有名進学校で萎縮し躓いて以来、また有名私大で漫然と文学部らしい現実逃避に耽って実社会から取り残されて以来、絶えて仕事のプロとはなり得なかった、通算20年に及ぶ私の経歴上の大ブランク。

 

幾度か社会復帰の時期はあるも、あまりの出遅れのため自分もいじけてしまい、至る所でコミュ障を露呈。職業人として一般人と遜色ない立ち居振る舞いができるようになったのは、実にこの警備の仕事のみ。50歳近くなってからでした。

 

しかしこれほどの出遅れでも、7年半以上の警備員経験と自発的な取り組みによって、立ち直りを超えた成長を実感する出来事が幾度かありました。

 

   ☆

 

一つは警備員になった翌年2017年春のことです。

既にアパートでの一人暮らしを始め、交通誘導警備2級を受けると決まった直後でした。地元の少し離れたスーパーで買い物をし、レジに立つと、

「◯◯さん、覚えてますか?」

とレジ係の声。彼こそ、2007年からリーマンショックの翌春09年まで、物流倉庫の荷受チームとして一緒に仕事をしたヤンキー風の若者でした。

 

彼は当時20歳そこそこながら結婚して子供も2人おり、高校中退で小柄で、私とはまるで別世界の人間でしたが、同じ契約社員として正社員の下で倉庫内作業を分担するさい、フォークマン1名と共に、フットワークのいい私と彼がトラックの荷受けを担当したのでした。

 

しかし先述の通り私は未だコミュ障で、外から来るトラックのドライバーとはわりと打ち解けるものの、苦手なヤンキータイプには全くなじめず、リーマンショック後のいわゆる雇い止めで全員クビを切られるまで職場で孤立したまま終わりました。それでも私が重宝されたのは、10000アイテムにも及ぶ膨大な入荷商品を伝票に照らしててきぱき仕分けていく手並みが良かったからです。例えば2台のフォークリフトが各々パレット積みのダンボール箱の山を運搬しながら旋回中に、目で追いながら種類別に箱の総数と入数を掛けて入荷数を次々と割り出す技は自分にしかできない芸当でした。

 

ともあれ、スーパーでレジ打ちの彼は既にリーダー然としており、対する自分も日に焼けて警備員としての本格始動に踏み出したところ。互いにわずかなやりとりで双方の充実ぶりを感じ取り、目を合わせて自然に微笑みあったのでした。

 

その後も数回このスーパーを訪れましたが、やがて彼を見かけなくなりました。代わりに店内放送で、やや訥弁ながらおすすめ商品の名をアナウンスする声の主が彼でした。店長になっていたのです。かたや私も、都内白山通りのビジネスホテル建設現場で、検定資格者として交通誘導の隊長を務める身で、試行錯誤を重ねていたのでした。

 

   ☆

 

もう一つ、今春、印象的な出来事がありました。

常駐現場が終わってフリーで他現場に出ていた時、都内下町スーパーの新築工事最終盤の道路舗装直しのため、1日だけ私が加わることになりました。

 

現場に着くと、初めて来たのに既視感がありました。同じゼネコン、同じスーパーの別店舗新築工事で、やはり最終盤の外構工事のメンバーとして、2016年春、経験2ヶ月で加えられた時と、状況がよく似ていたのです。

 

そして何より、舗装工事業者名が、忘れもしない、新人の私が誘導できずに大恥をかいた、まさにその業者だったのです。

 

当時、交通量の多いバス通りで片側一車線ずつの舗装のため、ベテラン警備員が集まっている中に放り込まれて、重機やダンプの轟音に圧倒され、道幅ギリギリをすり抜けるバスやトラックに生きた心地もしませんでした。ふと作業員がダブルキャブをガレージに入れようとして私に誘導を命じましたが、私はただオーライを連呼するだけで、気づいた親方が「オイ危ねえ危ねえ、後ろぶつけるとこだった」と血相変えて止めに入る始末。

 

このヘマで目をつけられ、その日の舗装が終わるまで、まともに相手にされず、帰り際に挨拶しても完全無視でした。

 

それからちょうど7年…。2本線のヘルメットで、イオンタウンや聖マリ医大病院の大規模現場も主導してきたこの自分に、思いがけず挽回のチャンスがやってきたのでした。

 

工事の段取りは、今なら見ればわかります。他の警備員3名も、揃って経験20年近い熟達者でした。唯一の2本線として、ダメなら余計目立ちます。この日も片側一車線で交通量の多いバス通り。おまけに信号密集地帯で、誘導ミスがたちまち車を詰まらせてしまう難しいシチュエーションでした。

 

結論からいうと、工事自体は遅滞なく終わりました。ただし交通量がべらぼうなため、一般車の渋滞は昼まで延々と続き、苦情も出ましたが、それは誘導の限界を超えた話で、監督も作業員も十分わかっていました。春にしては強烈な陽射しを浴びながら、午後3時まで運動量と緊張の持続で真に疲れきったこの一日。でも片付けが済んで現場を去る時、親方がかのダブルキャブから私に軽く右手を上げるのを見て、ああ7年間の経験が報われたんだな、と、心洗われるような思いがいちどきに込み上げてきたのでした。

≪炎天下、国道規制の矢面で≫

ブログ更新が間遠になり、日々の業務に忙殺されてモチベーションさえ遠のいていく…。

 

交通誘導警備の7年半、前半生の失敗と社会的ブランクの長きを克服・挽回すべく、倍々速で生き改める覚悟で経験を積んできました。

 

6月からは横浜の新築現場を担当し、国道1号に面した激狭の地で今は地下躯体工事の後半戦。鉄筋をジャングルジムのように緊密に組み上げ、周りに型枠を張り巡らせて締め付け終えたところでお盆を迎えました。

 

わずかふた月半の間に、杭工事・掘削・山留工事等一連の工程を矢継ぎ早に推し進めたため、そのつど大型重機やトラック・ダンプの出し入れと第三者誘導には極度の緊張を伴いました。

 

とりわけ7月から、重量物の搬出入と場内揚重にラフタークレーンが必須となり、国道1号の片側一車線をつぶす形で規制帯を作る日がずうっと続きました。手前の信号までは三車線なので、流れてくる雑多な車両を一車線に縮める圧はもの凄く、しかも規制帯内の仮通路へ歩行者・自転車を迂回通行させるのにも素早い対応と隊員どうしの交信・連携が欠かせないため、気の休まる時がありません。

 

猛暑の炎天下で、朝は資機材の準備から、ラフター到着時のポール際ギリギリへ寄せる誘導。そして夕方5時のラフター退場と資機材片付けまで。

 

空調服ではどうにもならず、コンビニの冷凍ペットボトルを朝昼午後と買ってきては頭や首にあてがい、ちびちびと溶かし飲み、塩分は食卓塩をそのまま飲用しています。

 

それでも通行人には文句を言われ、聞く耳持たずの自転車やランナーには強引に突破され、暴走車には危うくはねられそうになり。

 

猛暑を迎えるたびに、もう警備は今季限りに、と思わぬ年はありません。でも一貫して前向きでいられるのは、一職業人に徹して正道を歩んでいる自覚と、一つの現場を全うすれば、また海外旅行や登山で自身の精神的充溢を図れるという期待があるからなのです。

   ★

その一方で、このブログを始めた2017年時点ではまだ自分に近しいテーマだった、長期ひきこもりや無業・失業経験者としての悩み、については、コロナ前には実質解消しています。ただ、その後就労支援や社会復帰のための相談窓口が格段に整備されたにもかかわらず、無業者本人がなんら自発的に動かなかったり、当事者界隈の発信者などが屁理屈を並べて就労よりも安逸や生活保護申請を唆すようなサイトを見つけると、今は本気で嫌悪感と怒りを覚えます。

 

確かに、私自身も生来内気で端正、おくてな性格のため、有名進学校止まりで混迷し行き詰まった世間知らずの甘ちゃんでした。大学文学部での深い幻滅も、別の道へ転じる機転や努力に欠けていたし、就活も失敗。しかも、人文系特有の実社会軽視、斜に構えた権力批判的なスタンスが、現実社会の激流を生き抜いていく上で一片の役にもたたなかったのでした。

 

残念ながら、私が袋小路を抜け出す過程で既に30代半ば(主に物流倉庫作業)。さらに家族との泥仕合を経て生活困窮者自立支援制度の下で就労準備支援を受けながらの復活劇が40半ば。

 

それでも、初期のブログで書いたように、まっさらな心がけで介護の初任者研修を終え、警備に転じた時も自分から飛び込みました。どこかで自身が行動を起こさなければ、長期ひきこもりなど絶対に克服できないのです。

 

たかが警備員、底辺職の経験じゃないかと侮るなかれ。

 

当ブログ120回の軌跡を拾ってもらえば、私の社会復帰後の経験と、四時歩武和讃の詩篇とが、人目を惹く奇矯さや極論の類とは全く無縁の真摯な精神的葛藤を内包していることをきっと読み取れるはずです。

≪コロナ明け・試行錯誤の日々≫

交通誘導警備の隊長として、2つの大規模新築工事に全力投入した3年間。

 

それはコロナ禍の直前2019年12月に(初めは一隊員として加わった)埼玉のイオンタウンふじみ野で始まり、今年2月初めに川崎の聖マリアンナ医大病院で次期工事を受け持つ他社への引き継ぎを終えるまでの3年余りでした。

 

その後私は、都心ど真ん中のビル新築工事現場に常駐する予定でしたが、江戸時代の埋蔵文化財発掘調査に伴い4ヶ月間中断となり、結局GW明けに警備の話は白紙となってしまいました。

 

以後、他現場への応援や検定道路、隊長代行等を経て、やっとこのほど横浜市内の専門学校新築工事に来春まで常駐することが決まりました。ちょうど解体工事が完了して新築工事に切り替わるタイミングで、前任者から引き継ぐ形です。

   ★

実は、GW期間の前後、個人的に物凄く気が沈んでいました。コロナ禍明けの指針がはっきり示され、自身も、2019年11月末以来となる海外旅行を企図していたのですが、聖マリの大きな任務をやり遂げたあとにぽっかりと空いた孤立感・寂寥感を振り払うことがどうしてもできなかったのです。ベトナム行きの手配を全部自力で整え、GW明けに出発予定でしたが、宿泊予定のホテルが軒並み英語の陰性証明書提示を求めると知って、直前でキャンセル。

 

LCC利用のため返金もなく、一気に何万も失ってしまいました。が、それにも増して、警備で社会復帰7年4ヶ月も経ってなお、学生時代からの友人1人を除いて、仕事以外でなんら実のある交友・知的な接点を持ちえない孤立した現状に、我ながら暗澹たる無力感が募るばかりでした。

   ☆

それでも気晴らしに、日帰りではありますが新緑の山へ2度登りに行きました。関東甲信の山は大方登り尽くしたため、頂上で360度展望に恵まれてもめざましいほどの感動はしませんが、山中で異形の光景が目にとまれば、写真に残したりはします。

これは5/4 長野県川上村の男山(1851m)山中で一斉に涌き出したオニゼンマイの群落です。

≪知的隔絶30年。無名のままに私が生き遺したいこと≫

警備の繁忙期が終わり、例年になくしんどかった花粉症もとうにピークを過ぎました。

 

満開の桜はあっという間に散り敷かれ、各現場への道すがら、私の前には乙女椿やレンギョウドウダンツツジ、紫木蓮、コブシ、花水木、アカバトキワマンサク、真っ赤な若葉のカナメモチなどが行く辻ごとに立ち現れます。

 

仕事のほうも、街場の下水道工事や店舗の改装に伴う商品の運び出しといった身近な現場から、民放TV局本社前での歩行者誘導など大手ゼネコン関連のものまでさまざまです。ただ、2月下旬から自分が専属で就いた都心のオフィスビル新築工事については、鉄板を敷き終えた3月末になって急に、施主の意向で埋蔵文化財調査を行うこととなり、江戸時代の遺構の発掘作業のためなんと4ヶ月も着工が先延ばしされる事態となりました。

 

このため、警備の職長としての勤務予定が4ヶ月丸ごと消えてしまい、現在自分も会社もどうしようかと困惑しているところです。

 

さしあたり有休を挟むことでGW頃まで仕事をセーブできるため、登山など小旅行でリフレッシュを図るつもりでいます。約3年間、2つの大規模現場で(有休も取らず)重責を全うしてきただけに、コロナ禍明けに気分一新、4泊程度の海外旅行へも行ってきたいものです。

 

と同時に、停滞していた当ブログにももっと積極的に向き合おうかな、と思い始めています。

 

数年来、いまの言論状況や人物評価のどうしようもない混乱倒錯ぶりに絶望のあまり、ブログの更新に嫌気が差して途中で全部消してしまうこともしばしばでした。

 

悪名は無名に勝ると嘯いて、ゴミのような輩が耳目を集めては矢継ぎ早に記事に取り上げられ、メディアの神輿に乗って放言しまくる。何の価値もないバカな悪ノリ・迷惑行為もネタとして面白がり囃し立てる愚劣な風潮。'80年代以来のお笑いバラエティ隆盛の行き着いた果てがこれでした。

 

以前のブログでも述べた、キャラや奇行や極論(3つのキ印)の横行。

 

でもそれはインテリとて同じことでした。高学歴や御大層な肩書と発言内容や人品との酷い落差ゆえに反響を呼び、世間の非難を浴びても、ニュース沙汰になれば勝ちで注目度は高まり発言力も増す。反体制気取りや権力批判の陳腐な逆張りジャーナリストも同じです。

 

私自身は非常におくてな人間だったうえ、生育環境もごく平凡で、強烈な原体験や特殊な思い入れもないまま人文知の世界に入ろうとしただけに、文系学問の言説空間というものが往々にしてジャーナリスティックなイデオロギーや時代性により極めて教条的・攻撃的・感傷的な方向に先鋭化していくことは実にショックであり幻滅でした。

 

特に所属学科のドイツ文学科はナチスドイツの戦争責任を問う、絶対的な贖罪意識から出発していただけに言葉に迷いがありません。加害と被害の関係性は永久に固定化され、歴史認識、首相の反省の言葉、ナショナリズム軍国主義、民族・少数派差別、天皇の戦争責任といった戦後左翼お定まりの問題意識に凝り固まって、日独ともにまさしくカルト教団のように統制された論調でした。

 

もっとも大学卒業後の私の孤立無業化・ワープア化は、ひとえに自身の不甲斐ない遅疑逡巡によるものなので、そこまで知識人のありように責任転嫁することはできません。実際、のちに物流倉庫作業員として社会復帰して以降は、むしろ知的世界とはスッパリ切れた底辺層の一員としてただ寥々と生きながらえてきた感さえあります。

 

しかし、警備の仕事で再度社会復帰を果たして7年余。遅きに失したとはいえ、今度は真に生活自立し安定し、一職業人として職長として現場で責任を負いながら他職と連携してやっています。年齢も53。すでに大学卒業から30年が経ち、さしもの長命な戦後昭和の文化人たちも次々鬼籍に入りました。でも、できれば彼らの最晩年にこそ、「僕はこんな考えで言論に向き合ってきたのです…」と四時歩武和讃の詩篇を見せてやりたかった。彼らが決めつけてきたドグマティックでとげとげしい膨大な左翼言説の抑圧下で、文字通り立ち竦み緘黙を余儀なくされたひ弱な一学生が、長く社会の底に沈みながらも人文知への信頼を見失わずに別解を見いだそうとした、そんな気概を本気で示してみせたかったと今でも思っています。

 

まあ交通誘導警備という、冬場は凍え、夏場は炎天下、いつ車に潰されても文句は言えない現場仕事に携わる私は、知的環境からは日本で最も遠い分際でしょう。身の程知らずと嗤って下さい。ただ、残り少ない人生何がきっかけで精神的に有意義な邂逅が実現するとも限らないので、当ブログは今後も折りに触れ更新していきたいです。

≪春に先立つ転機について②≫

さて、大きな現場を離れたあとも、2〜3月は警備の繁忙期です。

 

年度末の道路工事や下水管清掃の現場で全く手が足りず、日勤限定だった自分もついに5回夜勤に駆り出されました。夜勤に出られる人はもともと少なくて顔ぶれも大体決まっています。が、自分が加わると立場上隊長となり、初見で指示を出してリードしていかねばならず、深夜の冷え込みと相まって結構神経を使いました。特に、駅前歓楽街へバキューム車両等を入れ、マンホールや側溝の蓋を次々開けていく清掃作業。私に言われてただそこに立ってるだけで、酔客が真横を通っても、開口箇所が次に移っても気づきもしない、そんなレベルの隊員がいると、何度注意しても変わり映えしないし超危険だし、会社に報告しても人手不足を理由に交代もされず、こちとら冬空を仰いではオフホワイトな溜め息が洩れるばかりでした。

 

実際、警備の仕事を人が辞める理由の一つに、前線で体を張って厳しい片交に専念しようが、暇な場所で黙ってぼーっとやり過ごそうが日給は同じ、という理不尽な現場が続くうちに、もうこれ以上やってられるか!  とキレてしまう例は多いです。

 

私もこの3年間、2つの大規模現場で単なる無能を超えて迷惑・胡乱・非常識な隊員を度々寄越されては頭を抱え、監督の前で大恥かかされました。でもコロナ禍で職を失う怖さに比べたら全く取るに足りません。社会復帰後、一度も途切れず警備一社で働き続けている、その継続性がもたらした社会的信用の向上は、まことにかけがえのないものだったからです。

 

いずれにせよ、ひと区切りついたいま、警備以外のテーマ、とりわけこのブログの主眼であった、精神的探究についてや、同時代の言論状況についての私の意見なども再びしたためていきたいと思います。

 

その一方で、なんと明日20日から、早くも次の新築現場の職長として、来年までかかる都心のビル建設工事に常駐するよう本社ならびにゼネコンのグループ会社より指令が下りました。

 

このため、予定していた内容を変更し、春の到来までまずは新現場に傾注したいと思います。

≪春に先立つ転機について①≫

去る2月6日、22ヶ月あまりに及んだ聖マリアンナ医大病院の工事現場での務めが完全に終わりました。

 

職長として自己最長かつ圧倒的な密度で構築感のある貴重な経験をさせてもらいました。

 

新入院棟が12階まで建ち上がっていくプロセスと並行して、工事車両の通行や転回に必要な構内動線確保のために構台や長大なスロープやヘアピンカーブ状舗装道路を新たに造ったり壊したり。

 

建物ができたら今度は聳え立つ3基のタワークレーンを交互に解体し、その脇に一回り小さいクレーンを組み立ててはまた解体、を繰り返し、そのつど何トンもある部材を低床トレーラー数台に積み分けてバスロータリーから道路幅いっぱいに搬出したり。

 

怒涛のような生コン車や大型トラック、回送車の群れを、営業中の医大病院構内へ事故なく遅滞なく行き来させる難しさ。救急車や、付属の保育園へ向かう保護者の送迎車と、搬出入車両や待ち受ける職人たちとの双方に神経を使う車両捌き。

 

アパート自室に溜まった日々の各階作業図や月間工程表や殴り書きだらけの搬出入予定表は22ヶ月間の悪戦苦闘の置き土産です。でも工期が終わり竣工してしまえば、それらは無となり、ゼネコンや各業者との結び付きもさっとばらけて、またゼロから次の仕事が始まります。それが警備に限らず建築現場のありようでした。

 

ちなみに聖マリ現場を引き継いだのは神奈川に複数拠点のある数千人規模の警備会社です。都内とさいたまで100人ほどしか稼働していない私の所属会社では人材的にこれが限界でした。それを思えば、むしろ、建物竣工後も私を中心に外構工事や準備作業で2ヶ月間も呼んでもらい、最終日まで今まで通り電話やメール、呼びかけでこぞって指示や頼み事をし続けてくれた監督や職長さんたちには、ほんとに信用されていたんだな、といまも感謝の思いでいっぱいです。

≪警備7年、社会復帰の現在地≫

(前回の内容からいったん離れます。)

年末年始は12/29〜1/3まで仕事でした。

都内神社の初詣臨時駐車場警備(夜勤含む)が3勤、現場事務所の巡回保安警備が3勤です。

 

聖マリアンナ医大病院の新入院棟が完成した後も、ひと月空いてまた外構工事で現場に出ていました。さらに明日からもしばらく外構が続きます。来たる次期工事に先立って行われる、地下の浄化槽の改修工事とのことです。

 

実はその次期工事を我々(の会社)が担当するのかはまだ決まってないため、2月以降の予定は白紙なのですが、ともあれ今月で、私自身は警備員となって丸7年を迎えることになりました。

 

もうそれ以前の失敗の半生は振り返りません。

 

独り身の社会復帰・生き直しとしては上々の出来でした。

 

経済的にもゆとりができ、コロナ前には海外旅行も3度叶ったし、また直近では歯の治療も自由診療ジルコニアの差し歯(ブリッジ)をつけられるほどに復調しています。

 

誤算はむしろ、大規模工事現場の隊長としての責務に精を出すあまり、転職相談や他業種の資格取得など、本来考えていた次の展開を試みる余地が無くなってしまったことです。さらに、コロナ禍の3年間、仕事が充実している間に、自身の収入や社会の中での立ち位置が一般人と遜色ないレベルまで上がってきたことは、嬉しい反面、社会保険料や住民税なども相応に爆上がりするため、今の仕事からおいそれとは離れにくい状況ももたらしてしまいました。

 

まあともかく来月までは気をもんでいても仕方ないので、地道に1年をスタートさせる所存です。

≪1200年前、同じ時代の高みを訪ねて②≫

3年前に訪れた、新羅の仏教遺跡群を思い出しながら、去る11月中旬、私は初めての京都で比叡山延暦寺へと赴きました。

 

ケーブルの駅を降り、年配ツアー御一行様や若干の外国人とともに東塔エリアへ入ったのですが、中心となる根本中堂は、なんと全面改修中。倉庫のような外観ですっぽり覆われ、内側は頑丈な仮設足場が張り巡らされ、拝観は下駄箱に靴を置いて足元に注意しながら順路をたどる格好でした。

 

内陣に祀られた薬師如来や法灯などは暗くて殆ど見えないまま、列に沿って進むうちに通路へ弾き出されてしまいました。が、狭い展示を経て仮設足場が見渡せる場所へひょっこり出ると、一転してそこは、仕事でおなじみ大規模工事現場の光景そのものではありませんか!

中庭に見学用のステージが組まれ、眼下には廻廊屋根の葺き替えが、反対側には鉄骨越しに本堂屋根(銅板葺き替え)も観られるようになっていました。写真奥に真新しい平板のストックも見えますが、新築現場同様、生の木の匂いまで立ちこめてくるような実に美麗な職人仕事でした。時々遠くの方で何か叩く音や削る機械の音がするも、それがまた控えめで何とも奥ゆかしく感じました。

 

ふとパンフレットを見て気づいたのですが、根本中堂の大改修工事は、平成28年に始まっています。奇しくもこの年、私はおずおずと警備の仕事に入り、最初の現場は都内の駅前マンションの改修工事でした。仮設足場を間近で眺めたのはその時が初めてだったといえます。

 

それから6年10ヶ月。同じ警備会社で、私は聖マリアンナ医大病院の新しい本館となる建物の完成まで1年7ヶ月間交通誘導警備の職長を務め上げました。しかし聖マリのリニューアル計画自体はまだ道半ばで、グランドオープンは2026年までかかります。かたや延暦寺根本中堂の改修工事も息の長いもので、2028年頃まで続くようです。

 

比叡山で思いがけず大規模現場に直面し、改めて延暦寺とその価値の継承に思いを巡らすはめになりました。そもそも標高800mの山中にラフターもトラックもない江戸時代に本堂が再建された時点で大工事だったにせよ、それを後世の人が立ち返るようにメンテナンスを繰り返すのは、やはり日本仏教の源流として果たした歴史の重みが違うのでしょう。

 

参道に沿って生い立ちの紹介もありましたが、比叡山仏道を修めたのち画期的な宗派を興すなどして大成した人物が、恵心僧都源信法然上人、親鸞聖人、栄西禅師、道元禅師、日蓮上人と、すべて今日まで日本人の精神的支柱となっているほど多士済済なのです。

 

伝教大師最澄と同時代の弘法大師空海が、全知全能の化身のような存在でありながら、その学統から後世別の道を切り拓いていく宗祖を出せなかったのとは対照的です。

 

(続きは次回)

≪1200年前、同じ時代の高みを訪ねて①≫

聖マリアンナ医大病院の新入院棟新築工事を無事終えたあと、私は交通誘導警備の仕事を結局4週間近くも休んでしまいました。(身の回りの整理や歯の抜本的治療のため。)

 

初めは、3年ぶりの海外一人旅をもくろんでいたのですが、ワクチン未接種のため、日本帰国前に現地の病院で検査を受けねばならず、もし陽性反応が出たら最後、無駄に足止めを食うだけなので、今回は見送りに。

 

そのかわり、なぜか今まで訪れる機会のなかった京都へふらりと出かけてきました。もとより社会的に大きく立ち遅れてしまった私は、ビジネスや仕事で日本各地を回る機会もなく、旅といえば趣味の登山か海沿いの景勝地巡りばかりでした。今回も山歩きを兼ねており、映像であまりにも有名な京都市内の神社仏閣は全部パスしましたが、唯一、日本仏教の源流となった比叡山延暦寺だけは訪ねようと決めていました。

 

といっても、私には宗教的なバックボーンは何もありません。平凡で学もない両親のもと、埼玉のベッドタウンで、一労働者の家庭に長男として生まれ育ち、生来極度におくてな性格で、喋りも運動も苦手。進学塾での成績が一貫して良かったため受験でK中学へ行きましたが、萎縮し躓き反抗し、大学復帰以降も実社会への見通しが全然甘く、かといって文学部のアカデミズムにも全く共鳴できないまま、人生下降線をたどる一方でした。

 

ずっとのちになって非正規雇用の倉庫作業員として社会復帰できたころから、数ある探究の一つとして特に鎌倉仏教の宗祖たちの思想と実践のありように強く惹かれ、自身の心に取り込んでいきます。

 

また、警備員として定着し、大規模現場の隊長を初めて任されやりきった2018年以降、韓国一人旅を試みるようになり、特に翌19年、3度めの旅で大邱から慶州を回ったさい、新羅の仏教遺跡を続けて観たことも興味を加速しました。

 

その時は、世界遺産で名高い新羅仏教の聖地 仏国寺(불국사)と石窟庵(석굴암)〈8世紀後半〉をタクシーで回り、市内の史跡巡り(徒歩)に加えて、北方 慶山市の岩峰の頂に切り出された座仏像『カッパウィ 갓바위(標高850m)』にも登山道から登ってきたのでした。

あいにく雨でしたが、そこは一つだけ願いが叶うとされる聖地で、大学受験の合格祈願とみられる家族など登拝者は後を絶たず、テンポよく流れる読経や頭上の鮮やかな五色の提灯の許、敷物の上で五体投地を繰り返す人々の姿は生きた信仰を目の当たりにする思いでした。

 

ちなみにここの寺で記念品を求め、買ってきたのが巾着袋。写真は裏面で、ハングルの般若心経全文です。

 

さて、このように新羅仏教の話を持ち出したのは、それが他でもない、比叡山延暦寺を創建した伝教大師最澄、そして同時代の双璧・弘法大師空海が生きた時代に打ち建てられた大事業だったからです。

 

(続きは次回)

 

 

 

 

≪職長の責務を果たし終えて≫

交通誘導警備員として自己最長の19ヶ月半通い詰めた建築現場が、先だってようやく終わりを迎えました。

 

2021年3月下旬、まだ現場に送り込まれて10日ほどで、前任者に代わって急遽職長に指名され、以来、総員最大20名を率いて、医大病院の新しい本館となる建物の新築工事と、起伏に富んだ構内道路の作り変えに伴う車両誘導とをリードしてきた長丁場でした。

 

昨春にはまだ3基のタワークレーンと構台がそそり立ち、躯体は地下の土台部分で免震構造を固めている段階でした。それが1年あまりでヘリポート付きの12階まで建ち上がり、設備・電気・内装業者の怒濤の追い込みで8月末には内部もほぼ完成。それと並行して建物正面玄関に真新しい救急ロータリーが造り上げられ、現行の救急車出入口が工事の関係で袋小路となっている不便も来年には解消されることになります。

 

さらに2ヶ月あまりにわたるゼネコンや施主や消防や医療従事者らによる入念な検査と視察を経て、ついに10月31日、新入院棟という名の新たな本館建物が、聖マリアンナ医科大学に無事引き渡されたのでした。

 

最終盤の警備は構内道路の舗装工事で2〜4名体制となり、最後は1人で11月初旬まで残工事に対応しました。10月中は日曜も出ずっぱりだったため、今は責務を終えた安堵感から、半月くらいは仕事を休む予定です。

 

この現場は、埼玉から川崎市内までほとんど始発で通い続け、かつ残業で帰りも常に遅いという点で過酷でした。さらに、医大と病院の各施設が丘の上に点在し高低差があるため、坂や階段の移動で相当体力を消耗します。当ブログがめったに更新できなかった理由は、毎日が本当に目いっぱいだったからなのです。

 

それでも職長の役目を全うしえたのは、3〜2年前のイオンタウン大規模新築工事での隊長経験が活きたこともあるでしょう。また緻密でダイナミックな工程や示唆に富んだ搬出入の段取りなど、多様な職種が複雑密接に絡むがゆえの警備を超えた面白さに日々やりがいを感じていたからでもあります。監督や職長たちとの関係も良好でした。さらに、大学病院の本館を建て替えるプロジェクト自体、全国的にも稀にしかない光栄なことです。急性期医療や災害拠点病院としての機能を拡充したこの新館は今後かけがえのない地域の拠り所として存分に活用されていくことでしょう。私としては、聖マリ医大創立50周年の記念事業に託けて、いま53歳の自分の人間的・社会的再生をそれに準えてみたい思いもありました。

 

ちなみに、今回のプロジェクトはまだ続きがあり、現在は2期工事が終わった段階です。年明けから3期工事が始まりますが、警備員についてはうちの会社が選ばれるかどうかは未定です。(メンバーの殆どが神奈川から遠い、等の理由で。)すでに新館への医療関係搬入トラックの誘導は、病院側で別会社の警備員を手配し常駐させています。

 

しかし、仮にこれで聖マリは見納めだったとしても、職長を務めた19ヶ月間の軌跡は、その現物が既存建物群の背後に稜々と抜きん出ているように、私の心に輪郭鮮明な記憶として残り続けるでしょう。なぜなら、思うに建築とは、存えていくものを拵えることに他ならないからです。