四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪失地回復里程標≫

先日、済州島3泊4日のひとり旅から帰ってきました。かねてから、社会復帰・仕事定着後の目標のひとつを海外旅行と見定めていただけに、その体験は単なる観光気分を超えて精神史的な意義を帯びたものとなりました。このことについては後述します。


一方、警備の仕事も再開しており、くしくも昨日の現場(単発)は私の出身大学のすぐ裏手でした。四半世紀ぶりに正門前に立ち寄りましたが、ほとんど何の感慨も湧いてこないのは意外でした。大学生活そのものは普通に楽しかったのですが…。


ところで、私はいま48歳です。ブログの初回に記したように、躓きの始まりは大学ではなく有名進学校での不適応でした。その後地元での郵便配達を経て、2年遅れで考えを改め、大学受験に踏みきりました。それまでは新聞の『受験戦争批判』の論調を真に受けて、学業放棄という極論に走っていたほどのナイーヴなおバカさんだったのです。


偏差値エリート崇拝の両親との空しい啀み合いも、私が有名大学へ即合格できたことで一時は解消しました。それだけに、せっかく入った学部/学科での急速な幻滅は、自分でも虚を突かれた思いでした。しかも、この出遅れの間にバブル崩壊、そして就職状況も暗転しつつありました。いつの時代も目はしのきかない人間はダメ、という典型のような形で、私は没落していきます。今ならさしずめ「とっくに人生詰んでる奴w」で片付けられるレベルまで、ほとんど有効な手だてがとれませんでした。


しかし反面、そのときどきの時代思潮にすぐ乗っかる連中の危うさ空しさ浅はかさも、私はしっかり見据えてきたつもりです。一般人もインテリも、殆どは時の話題に流され、状況に流され、感情を蕩尽しながら生きています。当初は私もそうでした。でも苦い反省を経てからは、時間の篩にかけて持続的な価値をもちうるか、が遥かに重要な判断基準となりました。人文知にこだわる理由もそこだったのです。時代の言葉を超えて認識の深まりが見られるかどうか。


例えば、20世紀西欧由来のイデオロギー的決めつけが作品・人物評価に直結して、欧米インテリの関心をそそる歴史問題・戦争責任ばかり大写しになる嫌な時代がありました。いまはそういうのは下火になりましたが、代わって何の葛藤も成熟もない幼児性垂れ流しのような娯楽や戯作が日本発のポップでクールなエンタメカルチャーとして熱狂的に歓迎されたりしています。でも、ある時代に何がことさらに受け容れられるかを『時代性』と呼ぶならば、政治的なものと享楽的なものは、共に集団でのぼせ上がりやすい手放しの依存性という点で、硬軟相似た現象のようにも見えるのです。


そんな中、私は当ブログを始めた理由を半年ほど前に4つ挙げました(『序文②』)。それを乱暴に言い換えるなら、「このまま黙って闇に葬られてたまるか」という思いだったのかもしれません。


引きこもり、非正規雇用の職歴、孤立無業期…。その社会的敗北感は確かに圧倒的です。取り返しがつきません。でもある時期から、過去はひとまず諦め、自分の資質や探究心をよりトータルなものに昇華していくための独学・思索を始めました。さらに、身内の問題で行き詰まった最悪の時期には、ソーシャルワーカーに社会復帰への行程表を作ってもらい、親とは絶縁。介護の職業訓練を糸口に2~3年かけての地道な生活再建をめざしたのです。


その後飛び込みで警備員に転じてからの成り行きは以前書いたので省きますが、すでにその意義を確信している自作の詩篇についても、発表の場さえ作っておけば、いずれ目にとめる人も現れるだろうと思いました。本になる見込みすらないけれど、同時代からいっさいお膳立てなく、しがない一警備員がこんな探究の成果をひそかに遺していたんだ、と後から検証できるようにね。


もちろん、こんな状況になる前に、「あの時期こうしておけば今頃はなあ…」といった後悔の念は尽きることがありません。直近でも、済州島ひとり旅をするくらいならせめて韓国語の読み方くらい早くから勉強しとけばよかった、と痛感したものです。かつての無業失業期の合計年数を考えれば、優に2、3の言語をマスターするのに充分な時間だったからです。


でも済州島旅行がもたらした収穫として、近くて遠い隣人に目を開くきっかけになったのは幸いです。そもそも移動やホテルや買い物の際にコミュニケーションをとる必要があったし、車も右側通行で警備員的にも気になる存在。また若者の髪型やファッション、寄り添い方なども東京とは違った趣きがありました。


最後にエピソードを一つ。


今回の旅行の主目的は、漢拏山という韓国一高い山に登ることでした。その登頂はじつは2年ごしの実現でした。一昨年の盛夏、日本の南アルプス3000m峰を私がひとりで縦走したさい、最後の山頂で一緒だったのが韓国からの登山専門ツアー一行だったのです。彼らの集合写真のシャッターを私が押したあとで、今度はこちらがハルラサンへ行きますね、と言って別れたのですが、それを実現できただけに達成感もひとしおなのでした。


さらにいえば、まさにそのような意味での精神史的交流こそ、当ブログで連載した『オラトリオ見越入道』が希求する世界にほかならなかったのです。