四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪炎を測る3つの尺度(後半)≫

   三.

私にとって、炎とは心の持ちようのこと。
燃え上がる派手な火の手ではなく、至ってパーソナルで『灯芯大』な生きざまの謂でした。


元来が端正で中庸な性格の持ち主です。人を焚きつけ鼓舞させる火付け役には向きませんし、ネット上の『炎上』をもたらす自己顕示欲からも程遠い。


むしろ長年恐れ怯んできたのは、『炎上』ならぬ『延焼』でした。燎原の火のごとき流行や熱狂。一気に燃え広がって人々を浮き足立たせ、話題に群がるメディアや売れ筋信者によってそれ一色になる。孤立する個々人の苦悩にはなんの光も当たらなかった前世紀末、閉塞感の強まる世相につれて実際私も窒息寸前でした。


『燎原の火』の特徴は、まず炎に芯が無いことです。滋養を吸い取る根が無い人々、話題性や市場価値、政治イシューの熱にあてられた人々が熱量だけでひとつに燃え上がり単色に染まるその危うさ。


また、ロウソクの炎は周囲の酸素によって色づけられているのに対し、燎原の火は周囲の空気によって焚きつけられているという違いがあります。風に乗って何にでも燃え移り、見境なくバチバチ焼き尽くし、大火は全土に不毛を拡げ、小火(ボヤ)は不信の種を撒く…。


さらに、ロウソクの炎が必要に応じて灯されるのに対し、燎原の火は冷めたらおしまいです。思えばロウソクを灯す場は夜間・屋外・避難所であり、いずれも非常時、人の体温と安心を守る大事な役目があります。またお寺や祭りの燈火・灯籠は歴史や伝統・先祖などとのつながりを想起させる意義もあります。しかしブームとしての燎原の火には、例えば聖火リレーのようなつながりの射程は到底望みえません。


   四.


1本のロウソクに灯す私の志が真正なものでありますように。そう、いつも願っています。


交通誘導の警備員となって社会復帰し、2年8ヶ月。建築・土木の現場作業で多くの職種の働きをひそかに観察しては日々記憶に刻んでいます。資格者にして職長の今でも、工事車両を隘路で誘導するときには過度に緊張してしまう私ですが、それでもこのほど、自身2つめの常駐現場、山の手マンションの大規模修繕工事を無事務めあげました。


足場ばらしの最終日、撤収する資材の積み込みに手間がかかり、最後の7tトラックを満載にしたときにはもう夕闇でした。明かりのついたマンションの正面に沿っておもむろにトラックを前進させ、大通りで車の切れ目を待ってゆったりと左折へ。運転手への挨拶が職長としての最後の締めとなりました。


鳶さんと警備の仕事は、痕跡を残さず無事終わることが最高の務めといえます。私は無業失業時代、フリーター時代も含めて、そのような職能の存在についてはほんとに無頓着でした。もしかしたらその報いで、私の余生は1本のロウソク=誘導灯の如く一隅を照らしつつも痕跡は残さず消えていく運命なのかもしれません。


だとしても、せっかくブログの場を借りて四時歩武和讃の公開を続けてきたのですから、いずれは読み解く篤志家が出て新たな局面に至ることを希求してやみません。ともあれ、1本のロウソクに灯す私の志が真正なものでありますように…。その願いはいまも変わらず切実なものであり続けています。