鉄骨建方の最初の工区がR階まで立ち上がりました。敷地の一番奥の広いエリアで、柱と柱を繋ぐ大梁が特に長いため、首振りのトレーラーによる搬入が必要だったのです(全12台)。
懸案だった曲がり角の病院患者駐車スペースの件は、結局、現場所長が逡巡している間に病院内のお偉いさんへ直接交渉しに行った警備員の私が、散々いびられながらも翌日条件つきで駐車制限及び工事車両の通行を認められるに至りました。
昨年秋から現場の交通誘導の顔として私が悪戦苦闘してきたのを見るに見かねての措置かもしれません。が、実は私は2021~22年にも川崎の医大病院の本館建て替え大規模現場で、工事車両誘導に全面的な支障が出たさい、協力願いのために病院内で先生と面会したことが2度あります。逆に医師や大学教授から病院の外でクレームを受けたケースもありましたが。
極度に緊張しながらも、渉外担当のような役目までいまの自分はやればできるじゃん、という確かな手応え。それは、私が子供のころから一貫して自分はこうだと決め込んでいた『引っ込み思案』『口下手』『おくて』な悩みや、先生に指されると頭が真っ白になり固まってしまう『指名恐怖』『場面緘黙』などの弱点が、その思い込みを拗らせるといかに後年社会人としてのつまずきの種になるか、またその後の人生を『引きこもり』や『社会不安障害』で台無しにしてしまうものか、の残念な顛末でした。青年期の自己判断の誤りが今更ながら痛切に悔やまれてなりません。
折しも先日、私は2ヶ月ぶりに一人暮らしの父の部屋を訪ねました。ちょうど亡き母の誕生日でもあり、90歳を迎える父と少しばかり昔の話もしたのですが、父もさすがにもう私の過去を咎め立てはせず、遅まきながら生活自立し元気に働き続けている警備員の私に一応の安堵感を見せていました。思えば1980年代、有名私立中高に通った程度で、さあ東大へ行って官僚・法曹・いい会社へ、などとナイーブに信じこんでいた父と母。かたや校風に馴染めず受験戦争批判のマスコミ論調に焚きつけられて一気に学業放棄の極論まで突っ走ってしまった幼稚な私。
過去を恥じる気持ちは終生変わらないにせよ、まだ捲土重来の余地はごく僅かながら残されています。そのためにこそ連日厳しい交通誘導に勤しんでいるのが今の私なのです。


