四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪見越入道 ⑧≫

オラトリオ見越入道
刻露清秀

〈3〉

時に義人は知る由もなく
天上に諮られ、賭けられてきた。
友も助言者も誘惑者も
アイスフォールに隔てられ、
離反と懲らしめ、
涵養域にもいつか擦痕が顕れるように。


人は喘登を自負する限り
激しく飢え渇いているようにみえる。
だが斥鹵の村にも音信はあり、
世にはばかるほどの渇仰があった。
初発心時を獣骨に刻み、貝葉に刻み
綴り合わせて開眼となすように、
主稜線にも日時計が延び、鴃舌を照らす、
葬送のあとの陽炎、まばゆいばかりの風樹の谷に。


自注 : 音信 (おとずれ)


(続きは次回)


前にも触れましたが、私がスマホを入手したのは警備の仕事を始めて数ヵ月目。それまで数年にわたってネットの情報から切れ、テレビや新聞からも遠ざかって久しく、心の支えは数百年~二千数百年前に書かれた熟読に値する思索の書の数々でした。


もっとも私の場合、特別読書好きだったわけではありません。ただ、1990年代以降、本や出版をめぐる社会通念がガラッと変わってしまい、同世代とも話が通じなくなって苦しい思いをしました。いわゆる教養難民として、高等遊民的な嘲笑を浴びたり、知識自慢の陰口を叩かれたり。


私自身無自覚で生煮えで決め手に欠け、しかも実際引きこもりや無職だった時期なら、それも致し方ありません。しかし私の人文学的探究心は、試行錯誤の過程こそぶざまだったものの、結局気取りではなく本物でした。エンタメや現代文学・ジャーナリズム・アカデミズムのフォーマットにはいずれもなじまないけれど、独自の表現形態を達成しえた自負は確かにあります。

いまは第一発見者の出現を楽しみにしています。


ちなみに今年は現場見回りのため元日から仕事に出ています。寒風が身に染みる三が日でした。