四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪2009年、16年、23年のリターンマッチ≫

猛暑未だ収まらず、国道1号に面した横浜の極狭新築現場の交通誘導警備は、資機材の準備で朝から早くも汗だくです。

 

これまで2ヶ月にわたって、地下躯体工事に伴う山留材や仮設材・鉄筋・型枠の揚重のために前面道路に張り出していたのは20tラフタークレーンで、そのオペレーターは女性でした。自らSNSで発信もしているだけあって、到着時間は正確だし、各職種との連携も良く、操作も落ち着いていて終始一貫 好感のもてる人でした。とりわけ酷暑だった8月には、たびたび冷凍ペットボトルを差し入れてくれて、そのつどネイルの色柄が鮮やかだったのもよく覚えています。

 

今は地下躯体工事が終わり、いよいよ鉄骨建方が始まります。クレーンは一段と大きくなり、鉄骨を運んでくるトラックも当然大型車なので、一車線潰す道路規制もこれまで以上に危険を伴う、緊張した誘導になります。

 

   ★ 

 

……さて、はるか昔有名進学校で萎縮し躓いて以来、また有名私大で漫然と文学部らしい現実逃避に耽って実社会から取り残されて以来、絶えて仕事のプロとはなり得なかった、通算20年に及ぶ私の経歴上の大ブランク。

 

幾度か社会復帰の時期はあるも、あまりの出遅れのため自分もいじけてしまい、至る所でコミュ障を露呈。職業人として一般人と遜色ない立ち居振る舞いができるようになったのは、実にこの警備の仕事のみ。50歳近くなってからでした。

 

しかしこれほどの出遅れでも、7年半以上の警備員経験と自発的な取り組みによって、立ち直りを超えた成長を実感する出来事が幾度かありました。

 

   ☆

 

一つは警備員になった翌年2017年春のことです。

既にアパートでの一人暮らしを始め、交通誘導警備2級を受けると決まった直後でした。地元の少し離れたスーパーで買い物をし、レジに立つと、

「◯◯さん、覚えてますか?」

とレジ係の声。彼こそ、2007年からリーマンショックの翌春09年まで、物流倉庫の荷受チームとして一緒に仕事をしたヤンキー風の若者でした。

 

彼は当時20歳そこそこながら結婚して子供も2人おり、高校中退で小柄で、私とはまるで別世界の人間でしたが、同じ契約社員として正社員の下で倉庫内作業を分担するさい、フォークマン1名と共に、フットワークのいい私と彼がトラックの荷受けを担当したのでした。

 

しかし先述の通り私は未だコミュ障で、外から来るトラックのドライバーとはわりと打ち解けるものの、苦手なヤンキータイプには全くなじめず、リーマンショック後のいわゆる雇い止めで全員クビを切られるまで職場で孤立したまま終わりました。それでも私が重宝されたのは、10000アイテムにも及ぶ膨大な入荷商品を伝票に照らしててきぱき仕分けていく手並みが良かったからです。例えば2台のフォークリフトが各々パレット積みのダンボール箱の山を運搬しながら旋回中に、目で追いながら種類別に箱の総数と入数を掛けて入荷数を次々と割り出す技は自分にしかできない芸当でした。

 

ともあれ、スーパーでレジ打ちの彼は既にリーダー然としており、対する自分も日に焼けて警備員としての本格始動に踏み出したところ。互いにわずかなやりとりで双方の充実ぶりを感じ取り、目を合わせて自然に微笑みあったのでした。

 

その後も数回このスーパーを訪れましたが、やがて彼を見かけなくなりました。代わりに店内放送で、やや訥弁ながらおすすめ商品の名をアナウンスする声の主が彼でした。店長になっていたのです。かたや私も、都内白山通りのビジネスホテル建設現場で、検定資格者として交通誘導の隊長を務める身で、試行錯誤を重ねていたのでした。

 

   ☆

 

もう一つ、今春、印象的な出来事がありました。

常駐現場が終わってフリーで他現場に出ていた時、都内下町スーパーの新築工事最終盤の道路舗装直しのため、1日だけ私が加わることになりました。

 

現場に着くと、初めて来たのに既視感がありました。同じゼネコン、同じスーパーの別店舗新築工事で、やはり最終盤の外構工事のメンバーとして、2016年春、経験2ヶ月で加えられた時と、状況がよく似ていたのです。

 

そして何より、舗装工事業者名が、忘れもしない、新人の私が誘導できずに大恥をかいた、まさにその業者だったのです。

 

当時、交通量の多いバス通りで片側一車線ずつの舗装のため、ベテラン警備員が集まっている中に放り込まれて、重機やダンプの轟音に圧倒され、道幅ギリギリをすり抜けるバスやトラックに生きた心地もしませんでした。ふと作業員がダブルキャブをガレージに入れようとして私に誘導を命じましたが、私はただオーライを連呼するだけで、気づいた親方が「オイ危ねえ危ねえ、後ろぶつけるとこだった」と血相変えて止めに入る始末。

 

このヘマで目をつけられ、その日の舗装が終わるまで、まともに相手にされず、帰り際に挨拶しても完全無視でした。

 

それからちょうど7年…。2本線のヘルメットで、イオンタウンや聖マリ医大病院の大規模現場も主導してきたこの自分に、思いがけず挽回のチャンスがやってきたのでした。

 

工事の段取りは、今なら見ればわかります。他の警備員3名も、揃って経験20年近い熟達者でした。唯一の2本線として、ダメなら余計目立ちます。この日も片側一車線で交通量の多いバス通り。おまけに信号密集地帯で、誘導ミスがたちまち車を詰まらせてしまう難しいシチュエーションでした。

 

結論からいうと、工事自体は遅滞なく終わりました。ただし交通量がべらぼうなため、一般車の渋滞は昼まで延々と続き、苦情も出ましたが、それは誘導の限界を超えた話で、監督も作業員も十分わかっていました。春にしては強烈な陽射しを浴びながら、午後3時まで運動量と緊張の持続で真に疲れきったこの一日。でも片付けが済んで現場を去る時、親方がかのダブルキャブから私に軽く右手を上げるのを見て、ああ7年間の経験が報われたんだな、と、心洗われるような思いがいちどきに込み上げてきたのでした。