四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪相対するためのマニフェスト≫

話題制、金の亡者と馬鹿ふざけ。
同時代の何という虚しさ。


年頭からひとり冬山に登るなど、心の動揺を鎮めるべくもがいています。何度も述べてきた長年の寂寥感ももはや耐えうる限度を超え、いまはひたすらナイフリッジの上を辿り続けているような心境です…。



…仕事始めは5日。建築現場常駐者の体調不良により、代わりの資格者として緊急登板しました。


翌日曜日、ネットニュースで日食の記事に気づいて10時過ぎに散歩に出てみました。眩しいが肉眼でもわかる、茶まんじゅうをひとかじりしたくらいの欠けようでした。


私は格別天文ファンではありませんが、日食を思うとき、古代の諸文明でこれを最初に言い当てた人たちや、後にそのメカニズムにまで思い至った学者らの悠揚迫らざる洞察力に、戦慄を覚えずにはいられません。


ごく稀に太陽が短時間欠けるだけの現象を、見過ごすことなく記録に留め、日時計くらいしか装置がなく紙もない時代に何やら巨視的な周期性を見出し、予測を立てる。人の寿命が今より短く、生き延びるすべもはるかに難しい中で、先人の遺した断片的な記述を手がかりに、日々の太陽と月や星の運行状況を目測しながら、計算力と類推・直観を交えて蝕のメカニズムに肉薄していく、その堅忍不抜の探究心…。


空の異変に仰天しては徒に感情を昂ぶらせ、サル山のように集団で騒ぎたてるしかなかった当時の民衆とは何とかけ離れた高貴な存在だろう…。


知というものの原点は、このように同時代を超えたスパンでのかけがえのない真理探究の気概だと思うのです。古代ギリシャの哲学者の系譜はその模範的な例だし、科学に限らず、たとえば新約聖書のイエスの言行を見れば、当時の聖典の慣例化した読み方を一掃する、目覚ましい比喩に満ちた知性の息吹が簡潔な言葉のうちに横溢しています。


私が昨年、当ブログで公開してきた詩篇『オラトリオ見越入道』は、まさにそうした知性の伝統の驚異と普遍性を前に、ちっぽけな一徒弟として拝跪しつつも、自身の構想を交えて究極的には人文知の網目模様に貢献したいという真剣な志で刻み上げたものでした。


「それをこのような社会復帰ブログに載せて、わかってほしいなどと期待するところにどだい無理があるだろう。まったく社会の底辺の分際で(嗤)…」


そんなことは十分承知しています。


でも、今の日本のメディア=表現媒体のどこに、話題性やフックに一切拠らない私のような精神的単独行を受け容れる余地があるでしょうか? 


あらゆるものが娯楽=エンタメとしての興味によってのみ価値づけられる時代。当ブログで以前に述べたところの『話題制』、換言すれば『興味本位制』によって、人文学が大切にしてきた人間の品位や探究精神というものは滅茶苦茶になってしまいました。いまや世界規模の文化大革命を見るようです。


年頭から金をばら撒く社長が話題を撒いたように、コレ見ヨガシズム、ヒラキナオリズムはますます跋扈し、悪名虚名と無名との超絶格差社会は今後行き着くところまで肥大化するのかもしれません。


一警備員として社会的再生を目指すこともうじき3年。現在49歳。


情勢は限りなく不利ですが、志という炎を宿す私には、まだ映しうる火影があります。少数であれ、その精神の瞬きに気づいてくれる人がいれば、いまの私はそれで充分です。