四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪知的隔絶30年。無名のままに私が生き遺したいこと≫

警備の繁忙期が終わり、例年になくしんどかった花粉症もとうにピークを過ぎました。

 

満開の桜はあっという間に散り敷かれ、各現場への道すがら、私の前には乙女椿やレンギョウドウダンツツジ、紫木蓮、コブシ、花水木、アカバトキワマンサク、真っ赤な若葉のカナメモチなどが行く辻ごとに立ち現れます。

 

仕事のほうも、街場の下水道工事や店舗の改装に伴う商品の運び出しといった身近な現場から、民放TV局本社前での歩行者誘導など大手ゼネコン関連のものまでさまざまです。ただ、2月下旬から自分が専属で就いた都心のオフィスビル新築工事については、鉄板を敷き終えた3月末になって急に、施主の意向で埋蔵文化財調査を行うこととなり、江戸時代の遺構の発掘作業のためなんと4ヶ月も着工が先延ばしされる事態となりました。

 

このため、警備の職長としての勤務予定が4ヶ月丸ごと消えてしまい、現在自分も会社もどうしようかと困惑しているところです。

 

さしあたり有休を挟むことでGW頃まで仕事をセーブできるため、登山など小旅行でリフレッシュを図るつもりでいます。約3年間、2つの大規模現場で(有休も取らず)重責を全うしてきただけに、コロナ禍明けに気分一新、4泊程度の海外旅行へも行ってきたいものです。

 

と同時に、停滞していた当ブログにももっと積極的に向き合おうかな、と思い始めています。

 

数年来、いまの言論状況や人物評価のどうしようもない混乱倒錯ぶりに絶望のあまり、ブログの更新に嫌気が差して途中で全部消してしまうこともしばしばでした。

 

悪名は無名に勝ると嘯いて、ゴミのような輩が耳目を集めては矢継ぎ早に記事に取り上げられ、メディアの神輿に乗って放言しまくる。何の価値もないバカな悪ノリ・迷惑行為もネタとして面白がり囃し立てる愚劣な風潮。'80年代以来のお笑いバラエティ隆盛の行き着いた果てがこれでした。

 

以前のブログでも述べた、キャラや奇行や極論(3つのキ印)の横行。

 

でもそれはインテリとて同じことでした。高学歴や御大層な肩書と発言内容や人品との酷い落差ゆえに反響を呼び、世間の非難を浴びても、ニュース沙汰になれば勝ちで注目度は高まり発言力も増す。反体制気取りや権力批判の陳腐な逆張りジャーナリストも同じです。

 

私自身は非常におくてな人間だったうえ、生育環境もごく平凡で、強烈な原体験や特殊な思い入れもないまま人文知の世界に入ろうとしただけに、文系学問の言説空間というものが往々にしてジャーナリスティックなイデオロギーや時代性により極めて教条的・攻撃的・感傷的な方向に先鋭化していくことは実にショックであり幻滅でした。

 

特に所属学科のドイツ文学科はナチスドイツの戦争責任を問う、絶対的な贖罪意識から出発していただけに言葉に迷いがありません。加害と被害の関係性は永久に固定化され、歴史認識、首相の反省の言葉、ナショナリズム軍国主義、民族・少数派差別、天皇の戦争責任といった戦後左翼お定まりの問題意識に凝り固まって、日独ともにまさしくカルト教団のように統制された論調でした。

 

もっとも大学卒業後の私の孤立無業化・ワープア化は、ひとえに自身の不甲斐ない遅疑逡巡によるものなので、そこまで知識人のありように責任転嫁することはできません。実際、のちに物流倉庫作業員として社会復帰して以降は、むしろ知的世界とはスッパリ切れた底辺層の一員としてただ寥々と生きながらえてきた感さえあります。

 

しかし、警備の仕事で再度社会復帰を果たして7年余。遅きに失したとはいえ、今度は真に生活自立し安定し、一職業人として職長として現場で責任を負いながら他職と連携してやっています。年齢も53。すでに大学卒業から30年が経ち、さしもの長命な戦後昭和の文化人たちも次々鬼籍に入りました。でも、できれば彼らの最晩年にこそ、「僕はこんな考えで言論に向き合ってきたのです…」と四時歩武和讃の詩篇を見せてやりたかった。彼らが決めつけてきたドグマティックでとげとげしい膨大な左翼言説の抑圧下で、文字通り立ち竦み緘黙を余儀なくされたひ弱な一学生が、長く社会の底に沈みながらも人文知への信頼を見失わずに別解を見いだそうとした、そんな気概を本気で示してみせたかったと今でも思っています。

 

まあ交通誘導警備という、冬場は凍え、夏場は炎天下、いつ車に潰されても文句は言えない現場仕事に携わる私は、知的環境からは日本で最も遠い分際でしょう。身の程知らずと嗤って下さい。ただ、残り少ない人生何がきっかけで精神的に有意義な邂逅が実現するとも限らないので、当ブログは今後も折りに触れ更新していきたいです。