四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪閉じていかない、攀じていく。≫

警備の仕事で迎えた5回めの春(2016~)。朝から強い日差しを浴び続け、顔はすでに小麦色に焼けてしまいました。


隊長となっての務めもふた月に及び、どのゲートもまわる私は工事現場の顔として近隣住民にも認知されてきています。警備経験年数では常連隊員中最短ですが(次が9年)、2年前のブログで記したビジネスホテル建築現場での隊長としての試行錯誤を経て、今度ははるかに大規模な現場での手腕を試されている、そんな毎日です。


それにしても、今から5年前(2015)には所持金ゼロの孤立無業者で、母は倒れて重篤、駆けつけた弟からはお前が死ねと命令されるほどの修羅場。生活困窮者自立支援法の施行を知って自ら市役所に駆け込むのは4月に入ってからのことでした。


暗澹たる自問。自殺念慮。人目を憚る無様な彷徨。


…でも、もう克服したのです。克服とは、単に危機を乗りきることではなく、全く別のステージに立って視野を拡げ、充実の手応えをつかむことだから。


そして面白いことに、2017年11月からブログを始めると、再就労による引きこもり克服だけでなく、もう一つの根強い苦悩……知的世界からの30年来の隔絶……についても、気持ちの変化が現れ始めました。


つまり、自ら発信できずにいた間は、既存の言論人やマスコミの硬直した党派的論調にただ苛立ちや無力感を募らせることしかできなかったのが、自作の詩篇も交えて文章を公表することにより、怒りを徐々に抑え、低レベルな争点を自分は克服して今があるのだという確信が生まれたのでした。


実際、戦後から平成まで、言論人 知識人 作家としてあらゆる特権や肩書、受賞歴をほしいままにした文化人たちも、こんにちネット上の発言を見れば党派的決まり文句を常用していただけの十把一絡げの小人物だったとわかります。と同時に、いまを時めく挑発的な論客たちも、次々と降りかかる政治課題や危機意識に流されて、大局観とか大らかさを見失っているように見えました。


もちろん、一介の警備員として社会復帰したに過ぎない底辺の私がいっぱしの論争を吹っかける技量などありません。ただ、ブログタイトル『四時歩武和讃』が示す通り、私には、報われぬ四六時中の歩みの中で知的な営みとして長年洞察してきた詩篇の結実があり、それは自身が生きる質的な拠り所でもありました。思えば30年以上もの間、同時代のバブルやアイドル文化、サブカル、エンタメ、お笑いバラエティ志向に馴染めないまま孤立し、伏流して生きながらえてきたのです。そうすぐには認められないのも致し方ありません。


今のところ現場の仕事で手いっぱいなため、ブログ内容は交通誘導警備を通じての新たな発見や収穫がメインとなります。しかし、工期も終盤に入って警備の目処がついたら、有休を使ってしばらく休み、腰を据えて自身の課題に取り組みたいとも思っています。まだその時点でも、海外旅行などは制限されている可能性が高いので。