四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪七百人の交響曲≫

医大病院新本館工事、あいも変わらず出ずっぱりです。
ブログを綴る余力も残らぬほどに。


日曜以外、結局5/3·4·5しか休めずじまい。現場にはいつも始発バスで向かい、着いたら6:30にはゲートを開ける、その繰り返しでした。


建物自体はもう出来上がりました。ひと頃は作業員総数700人を超え、いまも各階で内装・設備・電気などが多数の下請け業者を動員して病院ならではの複雑な部屋割りを入念に拵え上げています。ちなみに、資材の運搬は本設のエレベーターを養生して主にフォークリフトと人の手で行っています。


すでに3月以降、屋上のタワークレーンは4段階に分けて解体・小型化・搬出され、工事用の仮設エレベーター2機も5月に取り払われました。その後のクレーン作業は、建物周りで旧い配管を撤去したり防火水槽を埋設したりする外構工事がメインです。

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さて、川崎市内のこの医大病院は、医学部の建物ともども丘の起伏の上に建てられています。新築中の新本館に至っては、建物の南面と北面で17m近い高低差があり、車は北側からなら1階に着きますが南ルートへ回れば4階に到達することになります。


現在、その4階へ通じるスロープの道路工事が続いており、路肩の補強、敷鉄板の撤去、路盤の整備、側溝や蓋の取り付けが終わって、近日中に一気に舗装する流れになっています。この構内道路が開通すると、これまでメインの搬入動線だった私の立つ工事用ゲートは役目を終えます。そこから急坂を2段上って保育園へお子さんを送迎していた仮設道路が要らなくなり、道幅の広い南ルートの新舗装路で保育園へも新本館(4階)へも直接乗り入れできるようになるからです。


昨年3月下旬に急遽この現場の隊長・職長となってこのかた、14ヶ月以上にわたって搬入ゲートの顔となってきた私。まだ建物の基礎部分すら固まっていなかった当時から、ゼネコンの現場事務所や朝礼広場から歩いて来る作業員の通用口となり、朝夕は病院·医大·保育園関係者の通行も見守り、時に施主や来賓の巡察を出迎え、何より12階建ての外観がすっかり出来上がるまで、定期健診の1日を除いて全日程1人で切り回し続けたゲートでした。

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以前の現場でもそうでしたが、私はこの警備の仕事でまさかの社会復帰を果たして以来、建築の段取りやインフラにかかわる他職の仕事内容を、つとめて広く知ろう、目に焼き付けようと意識してきました。


もとより私の父も一介の間仕切り職人でした。にもかかわらず、単に子ども時代の成績だけで私は有名私立K中から東大→社会的エリートという一本道に視野を狭められ、その純粋培養の袋小路で闇雲に反発・暴走した挙げ句、東大はおろか何一つ目標設定し得ないままかなりの年月無為無策の孤立無業者に甘んじてしまったのです。


それに比べれば、いまたとえ底辺職と見なされようが、警備の仕事を通じて社会を下支えしているさまざまな現場仕事に目を開かれるなら、それは願ってもない役得ではないか、と思えました。


世間は嗤うかもしれない、齢50にもなって社会のしくみがやっとわかってきましたなんて、お前どんだけおくてなんだよ、と。


でも社会的に立ち遅れた長期ひきこもりとは概ねそういうものなのです。


私の場合は幸い、当ブログやプロフィールでも触れたように、人文学的探究心や趣味の登山など、成人後に現れた本来の稟質が支えとなって、長期ブランクの失意や恥辱感から健康的によみがえることができました。


あとはこの新本館工事のごとく、無数の手業と錯綜した工程の集大成となりうるような、規模闊達な『七百人の交響曲』をいつか私自身の手で構想・制作できるかどうか…。


『オラトリオ ハノイの塔』に続く、第2の四時歩武和讃集を、警備の仕事と並行して詩作できたら幸せです。