四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪見越入道 ⑲、そして久しぶりの訪問≫

オラトリオ見越入道
刻露清秀

〈5〉(続き)

波を焚く殷雷、陸の強者は座屈を恐れ、
前途は大灘、海の隼人は壊蝕を恐れ、
火の粉に彫り上げられた山容
洞門に光を満たす海抜の原器、
地涌にすら飽き足らず
暮れなずむほどに遠き交わり、
なべて保冷し、備蓄し、格納する庫
僅差で照らされ、二瞬に浮かぶ、
船には たつき、見送る浜には磯馴びと。


全訳が成れば抄訳は廃れ
口割れのない賜物にこそ
受領の印が押されるように、
生き別れた者は互市場に集い
授記を門出にのびのびと泳ぐ、
もはや負荊を気に病むことも
汚い遺恨の取り立てもなく、
福音のあとには思慕する手紙が
論には釈が灯を嗣ぐように。


大灘 : だいなん / 地涌 : じゆ / 庫 : くら
磯馴 : そなれ / 互市場 : ごしじょう / 灯 : ひ

〈オラトリオ見越入道・了〉


長きにわたった詩篇の掲載が、ひとまず完結しました。2012年6月にいったん成立したのち、2割ほど差し替えて結構を整え、その後は若干のメンテナンスを経て今に至っているものです。


折しも改修工事の進行と軌を一にして、そちらのほうもホテル引き渡しと検査後の手直しがなんとか終わったところです。


先月までの喧騒もどこへやら、工期いっぱい勤めあげた達成感も束の間に、いまとりあえずの休みをもらっています。まだホテル内への家具や備品の大量搬入があるため、月内あと数回だけ現場に出ます。


そんなきのう、かねてより行きたかった場所へ足を運びました。それは、ちょうど3年前の今頃、生き地獄と化した肉親との関係に絶望して助けを求めに行った、市の生活相談窓口でした。再就労と生活再建・自立支援のために丸一年間私を支えてくれた3人のソーシャルワーカーに改めてお礼を言いたかったのです。


はればれとハナミズキが咲き誇る春爛漫の陽気でした。庁舎の2階に私が姿を見せるやいなや、懐かしい女性の担当者がすぐ名前を叫んで駆け寄ってきました。なんでも最近、職場の新人に就労支援のノウハウを教えるさい、成果をあげた具体例として私のケースをとりあげたばかりだったそうです。私の場合、実際にはその後も交通誘導2級資格者となったり、任された現場を工期いっぱい全うしたりと、かなり恩に報いることができたとは思います。


でもここに至る道のりは本当に危うく不安に満ち、小さなステップの積み重ねでした。3年前の4月、生活困窮者自立支援法に基づく就労準備支援事業が始まり、いわばその第一陣として、支援員ともども手探りで行程を進めていたからです。就労以前の段階から、生活習慣の見直し、自分のキャリアの棚卸し、グループワークで人と話す練習、職場見学や軽作業体験、デイサービスでの10日間の見学/研修を経て、ようやくハローワークでの職業訓練(介護)応募手続きへ。その選考に通った時点でもう8月半ばでした。そのかん最少限の生活費は全て求職を前提とした前借りで、2ヶ月余りの介護初任者の職業訓練は100%の出席(電車遅刻でも代替レポート午前中提出)が給付金支給の絶対条件でした。


いまでこそビル改修工事の工程表を携えた警備の隊長。でも2年半前まで、私の手にする行程表はといえば、「就労"準備"支援プログラム」だったのです。


ケースワーカーの女性は私に関する情報やエピソードを驚くほど子細に記憶していました。社会復帰後の継続的な追跡調査という面もあるにせよ、彼女自身が認めていたように、それだけ密度が濃く波乱も多かった、長期にわたる思い入れのある対象だったということでしょう。ちなみに、他の2人の支援員は不在でしたが、やはり折に触れて私のことを話題にしていたそうです。いつか、精神復興の面でも私の真価が認められるときがきたら、まず感謝の思いを捧げたいのは、長年の友人と、この3人になるでしょう。