四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪秋に近づいて漸く動く尋幽の興≫

短期間で季節も様変わりです。夏は結局一度も山へ行けなかったので、これからの連休ですっきりした晴天になりそうなら、新潟あたりの2000m級の山に出かけてこようと思っています。


自社の警備員に私以外登山好きはいません。現場の職人も含めて私が山の話をすると、判で押したように「富士山も登ったの?」と聞かれるばかりで、あとはせいぜい高尾山の名が出てくる程度。自分が興味のない分野の話って、自国のことでも本当にスカスカでイメージわかないんだなぁ、と改めて思い知らされます。かく言う私なども、テレビのない生活をしているため、浦和レッズの地元ながら無関心なサッカーはもとより、前世紀には球場へ何度も足を運んだプロ野球ですら、今は話についていけないこともあります。


趣味や嗜好ごとに人が分断しタコツボ化していることはかなり以前から痛感していますが、私がとりわけ問題だなと思うのは、何世紀にもわたって高く価値づけられてきた人類の共有文化といえるハイレベルな達成までもが、インテリの間ですら殆ど顧みられなくなっている現状でした。


例えば、クラシック音楽と呼ばれるジャンルがその典型です。楽器を習う人は今も多いのですが、オーケストラという包括的な営みから生み出された交響曲管弦楽曲などを聴き込んで、その精神的な綾目模様や発展性を理解しようなどという人は、絶えて見られなくなりました。しかし戦後も戦前も、日本の知識層でこのジャンルに心の拠り所を求めた人は非常に多く、演奏にせよ鑑賞にせよ、欧州や世界との共通言語として真正な価値を認め学び続けてきた確固たる歴史があるのです。


それが、1990年代半ばあたりから、インテリ層の信用失墜とともに雪崩を打ってエンタメ志向へと切り替わってしまいました。精神性は一切取っ払われ、作曲家や演奏家のキャラクターイメージや逸話のみで耳目を集めたり、キャッチーなメロディラインだけを切り取ってパフォーマンス本位にアレンジしたり、アニメやドラマなどとにかく話題性とのコラボが最優先になってしまったのです。


これも時流で、いずれはまともになると願っていましたが、ダメでした。むしろエンタメこそがわかりやすさの点で世界の共通言語・業界標準となり、市場価値に乗らないものは面白くないんだから負けを認めてどんどん消えてしまえ、という方向へ突っ走ってしまいました。


クラシック音楽に限らず、以前ブログでも触れたように、総じて人文知の分野での共通認識、つまり教養という土台、は無惨に崩れ去っています。もちろん、教養とて盲信は禁物。前世紀の共産主義のようにとんでもないババをつかむこともあります。でも、知的な営為とその構築物は(交響曲などもそうですが)先人の仕事の蓄積を前提とするだけに、理解するのがそうそう生易しいものであるはずがないのです。何でも検索でき世界に即発信できるという現代の全能感にもかかわらず、いま溢れかえっているエンタメ創作物のレベルは、港の波打ち際に溜まっていつまでも浮いている生臭いビニールゴミや油膜やペットボトルや発泡スチロール片を思わせます。つまり大量消費と乱痴気騒ぎの流れ着いた果てが、回収不能で目も当てられないこのていたらくなのです。



社会復帰したいまの私に何か貢献できる役割があれば、これからでもいい、同時代に一矢報いたい。でも、交通誘導警備の現場で日々体を張っているいまの立ち位置では、やっぱり理解されずにさみしく一生終わるのかな…。


近々山歩きでリフレッシュして、また新たな着想を得たら登場します。


《湖上泊》

 刻露清秀


わが心剃り足りず
恥じては全山紅葉に染まる。
黙然とそびえる気負い寺。


影は早蕨、“去”は“故”に通じ、
身寄りのない膚(はだえ)は集う
いのちの沢のかたほとり。


幾星霜を映す湖畔に
亡命度問う稀有な語らい
狭霧とともに跡形もなく。


一切は寒苦、氷上休工、
ただ戛々と踏み伝う目地のみ
御神渡りのように、否、堅信礼のように。


  《了》