四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪母の死と土壇場での和解≫

絶交していた父から続けざまに連絡がありました。病院で母の死に目に立ち会うようにと。


4年前の春先、認知症の兆しが顕著だった母は脳梗塞脳出血で2度倒れ、手術で一命は取りとめたものの、要介護5の寝たきりのまま余生を送っていました。父の自宅での老老介護、各種介護サービスのフル活用、容態悪化のたびに緊急入院、の繰り返しで、本人も術後の後遺症から取り乱して手がつけられないことが多く、おそらくどの施設でもかなりの難物だったと思われます。


頑健な父と違って、母はもともと素質全般に弱く、文字通り父に扶養されて万事『夫唱婦随』で生きてきた人でした。性格は明るく皆に好かれるタイプでしたが、80年代までの恵まれた総中流社会だからこそ許された、天真爛漫、いわゆる天然な人柄でした。


そのため、『いい学校』から東大を経て弁護士・裁判官・官僚へ、という父の描いたステレオタイプな出世の夢から私が完全に逸れていった88年以降、父とともに母もまた認識の更新無く昭和の日本に取り残され、雇用情勢の激変やメンタルな診療の必要性について私がいくら説いても聞く耳もたずじまいでした。


結局その母が倒れ、父と私の衝突が修羅場と化し、生活困窮者自立支援制度の施行を知った私が市役所に駆け込んで初めて、一連の不毛な泥仕合を抜け出すかすかな望みが開けたのです。当時前職からのブランクが長期化し、ハローワークにも疎まれて職探しの見込みほぼゼロだった私は、とうにカネも尽き、ただ家から逃れたいがために福島原発事故の除染作業志願者として東北の寮でヤ○ザと一緒に待機生活するなど、孤立無業の苦し紛れでやることなすこと目茶苦茶な状態でした…。



それはともかく、母の臨終に備え、私は父の待つ緩和ケア病棟に赴きました。そして肩で息をしている母の耳元で呼びかけると、母は急に白目を開き、嗚咽しながら片ひじを持ち上げたので、もう仲直りしよう、と言ってしばらく手をとり、静かになるまでさすっていました。すると小一時間で弟夫婦も到着し、1歳半になる姪と私とは初顔合わせとなりました。母はこの唯一の孫を生きがいにしていたので、弟が呼びかけると再び嗚咽し、なんとか片手をさしのべようとしましたが、生気を見せたのはそれがまさに最後の瞬間でした。


ほどなく母は息を引きとり、GW終盤はいわゆる家族葬。僧侶にとっても令和初の仕事となりました。
そしてこれを機に私は父とも縁を取り戻すことになり、葬儀に際しては、喪主の父に続く2番手として(本来は当然ですが)長男の私が遺影や骨壺を持つ役割を務めました。


死にゆく母の骨ばった手と、姪っ子のぷにぷにした肉球のような掌と…。期せずして老幼両様の感触をつぶさに確かめた私には、今後もう自分が死ぬまで二度とこうした親密な手の取り合いはないかもしれないな、と思いました。社会復帰や人的交流とは別に、何々家とか血縁的なものに生来馴染めなかった私には、人として何か根源的なさみしさが宿っている、そんな自覚があるのです…。