四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪法要、踵を接して≫

元号が令和となった翌日、私の母は世を去りました。その墓所が先月になってやっと決まり、昨日、遅ればせながら納骨の法要が営まれました。


手続きは私の弟が全て行いました。参列者は父と弟夫婦と幼い姪と私です。真新しい霊園で、墓石の下には骨壺が4基入ります。いずれ父が、将来的に私が、そしてありえないことですが私の“配偶者”が入るぶんまで見越してここに決めたのだそうです。


わずか4年前まで、断続的に30年近くいがみ合い、かみ合わず、不毛な泥仕合に終始していた父と私。
私の社会復帰が遠のいていく40過ぎになってもなお、今から法科大学院に入って司法試験を目指せと口走るほどに無知で無策で頑迷だった父。(ちなみに私は法律関係が学生時代から一番苦手でした。)


かたや5年前、母が脳出血で倒れたのを機に20年ぶりに会った弟の、当時無職のまま父と衝突する私に対する憎み殺さんばかりの凄まじい怒号と人格全否定の侮蔑口調。


そんな父と弟と私が、秋晴れの下、日よけのパラソルの陰に並んで僧侶の読経にひとしく頭を垂れている…。それは私にとっては陽炎か、世にも不思議な光景でした。でもこれを可能にしたのは、他でもない、仕事定着による生活自立と社会的な信用回復の賜物だったのです。


当ブログを始めた一昨年の≪序文①≫等を振り返ってみればわかります。身内との関係が持ち直すことなどまず想定していませんでした。主題はあくまでも自身の詩的探究の公開と、警備の仕事を通じての社会的ブランク克服という2本立てでした。


いまもなお、怠惰や不貞腐れではなく、やむを得ない状況からの失業や引きこもりの慢性化に悩む30~40代は厖大な数います。就業や社会参加への努力を真率に続ける人たちに対しては、私も陰ながら常に味方でありたい。しかし同時に、このブログでは、願わくばその先、仕事定着後の生き生きとした挽回ぶりや伸びしろに重点を置き、仕事を通じて目を開かれた事柄や社会との新鮮な関わり方について物語れたらいいな、と思っています。


例えば、まだ最近の話ですが、大相撲の著名な親方が亡くなり、後日相撲部屋で告別式が行われました。その時前面道路で交通誘導をした制帽の警備員が実は私でした。葬儀社からうちの警備会社に依頼が来て、管制が私を選んでくれたのです。


道路を挟んで報道陣が鈴なりに陣どり、理事や親方衆はタクシー・ハイヤーで矢のごとく乗りつけ、力士も近隣部屋から徒歩でぞろぞろ集まってきます。一方で、生活道路として配達車が頻繁に横付けしては荷下ろしし、ミニバスや幼稚園バスも随時走り抜けます。


昼前からは車道にも参列者が溢れだし、出棺に至るクライマックスでは熱を帯びた数百人が道路を埋め尽くしました。私は後方の交差点に独り出て一台一台車の迂回をお願いし、その甲斐あって無事霊柩車の出発にこぎつけましたが、その後も参列者を運ぶ送迎バスの連なりや、式終了後の葬儀業者の幌付きトラック数台分の撤収作業など、私にとってはとにかく初めて見る著名人の大がかりな告別式でした。


生来内気で気後れしやすくあがり症。それゆえ実社会に対して自分の特色をアピールできずじまいに終わった私。その臆病風を治すのに、交通誘導警備で場数を踏んだ経験がすごく活きています。それでも時折言葉が出てこなくて喋りがつっかえてしまうこともありますが、度胸だけはつきました。