四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪寒空の下で指揮を執る≫

異例づくめの2020年も終盤となりました。


歴史に刻まれる今年は、自分にとっても(51歳にして)最良の社会的挽回を果たせた充実の年として刻印されることでしょう。思えば一年前のちょうど今日、韓国大邱・慶州一人旅から戻って直ちに遣わされた現場こそ、今年10月まで交通誘導警備の職長を務め上げた『イオンタウンふじみ野』新築工事に他ならなかったからです。


しかし一方では、現在の雇用情勢といい、生活困窮者の運命といい、実にむごい一年となりました。リーマンショック後に雇い止めを食らった私から見ても、格段に状況は悪化し行き詰まりつつあります。


2015年4月時点で自ら動いて就労準備支援につながったことが私には本当に正解でした。7ヶ月もかけて導いてもらったのに結局介護職には全然不適格だったけれども、職業訓練(初任者研修)という密接なコミュニケーションのおかげで否応なく就労再開への感覚がつかめ、取り急ぎ警備員という別の踏切板にも果断に跳び込めたからです。


その警備員となって4年10ヶ月。私にとっては長期ブランクから生きて出直す大変な道のりでした。でも世間的には5年やそこら屁のような扱いでしょう。実際、建築現場などで新規入場者の提出書類などをチラ見すると、30歳の職人でも経験年数15年とか、年配者ならその道一筋35〜40年超がザラにいます。私の属する警備会社でさえ、同業他社での前歴も合わせれば大半が10年選手かそれ以上です。


実社会で食べていくには本来それが当然の姿でした。なのに私は生来の臆病風と、有名すぎる進学校での不適応や世間知らずと、文学部学生特有の批判的言説による現実逃避のために、まともな職業意識も育たぬまま、時代の変化やダイナミズムに両親ともども取り残され、探究の空回りを続けて引きこもりなどというぶざまな歳月を空費してしまったのです。


ただ私の場合、人文系アカデミズムを覆う紋切り型のイデオロギーになんらの意義も見いだせないがゆえの寂寥感や苦悩は人一倍切実真剣なものでした。なので、社会的に立ち直りをみせた物流倉庫契約社員時代のように、自身の張りつめた探究が同時代からかけ離れた鉱脈を掘り当てる瞬間も確かにあったのです。(詩篇『オラトリオ見越入道』はその5年越しの結晶でした。)


あとはとにかく、食い扶持を稼いで生活自立し、職業人の一人となって遅まきながらネットに自身を顕し、その志を理解してもらうことが長期的な課題でした。


実は今年初め頃、警備以外への転職の可否についても個人的に調べてみるつもりでした。しかし繁忙期の現場で肝心の隊長が突如音信不通となり自分が代わりを引き受けたこと、そしてコロナショックの拡大による社会全体の動揺も重なって、今の仕事に自分が必要とされていることの有難味を知り、ひとまず転職の可能性は棄てました。

    ☆

冬場になって、最近の私の仕事は、神奈川県内のガス工事に伴う片側交互通行です。私の住む埼玉南部よりも全体に坂が多く、住宅地の交通量も多い上、陽が落ちるのも早くなり、1日片交を終えるとかなり疲れます。ただ、今年エッセンシャルワーカーという言葉で社会を下支えする地道な職業の価値が再認識されたように、ライフラインに携わる工事関係者はもちろん、その安全を確保する私ら交通誘導警備員にも欠くべからざる意義はある。そう信じてコンマ何秒単位の厳しい車両捌きに耐え忍んでいる毎日です。

≪三年(みとせ)我が身を省みて≫

イオンタウンふじみ野』がついにオープンです。


周辺道路整備や駐車場の舗装なども含め、工事期間中、交通誘導警備の隊長(職長)を務めた者です。あれから、ちょうどひと月が経ちました。


思い起こせばきつい道のりでした。まず春先から延々続いたコロナへの警戒の持続。(結局現場では全く発生しませんでしたが。)


また、朝早い職人たちの大量の通勤車両を捌くため、7ヶ月の間ぶっ続けに5時始発列車で現場に通っていたことも忘れられません。


さらに、広大な敷地内の作業状況の見回りと各ゲート間のせわしない往復・伝達・休憩回し。


搬入出車両の捌ききれないほどの無茶振り対応…。


あまりの業者の多さと工程の複雑さに忙殺されて、当ブログの更新にしても、作業内容の記述にしても、終始駆け足で端折ったものになりすぎたかな、と読み返して反省しています。


けれども、大きな現場での達成感は、日が経つにつれひたひたと心に染みわたってゆきました。2年半前、初の常駐現場を10ヶ月全うしたドーミーイン後楽園の時と同様に…。ただ当時ほどの高揚感がないのは、それだけ経験を積んだ証でもあるし、また今回は現場明けにせっかく有休を取ったものの海外旅行など望むべくもない閉塞感のためでもあるでしょう。

    ☆

一方で、当ブログ自体もついに丸3年を迎えました。


≪序文①≫と称した初投稿で、おずおずと自身の略歴を述べてネットデビューしたとき、一人暮らしこそしていたものの、まだ両親や弟との不信の跡は濃厚に燻っていました。過去のいざこざや断絶を克服するまでには、なお相当の紆余曲折があると予想されたのです。


しかし、先述のドーミーイン現場完了以降、私自身も変わりました。済州島一人旅を皮切りに昨年12月まで3度韓国を旅したほか、昨年は母が死去し、実家も売却。それを機に父との関係も劇的に改善しました。つまり過去のしがらみ・わだかまりをさっぱり棄ててリセットし、残りの人生で能う限り新規な立場で生き直そうという方向へ明確に舵を切ったのでした。


実際私は、今年に入ってクレジットカードもゴールドに切り替わり、コロナ禍の鬱屈した世情と逆行するように、警備の職長としてイオンの現場で生気はつらつと奮闘しました。その間に、当初ブログのテーマにあった長期引きこもりブランクの葛藤などは、もはや取るに足らない些事となって雲散霧消しました。コロナ下で社会を下支えするエッセンシャルワーカーという総称が広まったように、一般人の誠実で献身的な業務すべてにこそ本物の価値があるのだと、はっきり見えてきたからです。


現在、しばしの有休も終わって都内とさいたまでまた交通誘導に従事しています。今年は去年までより勤務日数が多く、残業分も加わって、収入が増えたぶん社会保険料がドーンと跳ね上がりました。税金もおのずとそうなります。それは痛いですが、過去の引きこもりや無業期に十分社会的義務を果たさなかったツケをいま払わされているんだ、そう思って納得している次第です。

≪自分の城のようにいとおしく≫

報告が遅くなりました。


自己最長の現場となった埼玉県ふじみ野市での交通誘導警備の任務が先般ようやく終わりました。


イオンタウンふじみ野』新築工事と、上福岡郵便局の建替え・解体、周辺道路の外構工事全般です。


昨年5月、広大な更地に地盤改良工事のため低床トレーラーなど大型車両を出し入れするべく赴いたのが最初でした。その時のベテラン隊長と12月に再会した時には、もうショッピングモール本体の骨組みはある程度出来上がり、隣接する立体駐車場の工事がたけなわでした。その後今年の2月になって突如自分が隊長となり、折しも新型コロナが(12月に一人旅したばかりの)韓国大邱・慶北にて猛威を振るう異常事態に…。


以後、深刻化するコロナ禍のさなか、350人規模の3密現場で息を凝らしつつ、新郵便局の建設、前面道路の造り変えや電線・信号移設工事など、日々多岐にわたり輻輳する作業工程に振り回されながらの緊張した勤務が続きました。突発的な増員の要請もたびたびあり、うちの警備会社では人を出せず、やむなく自分が休憩を飛ばし駆けずり回って他の役割を兼ねまくることもしばしば。でも未曾有の緊急事態宣言下で仕事を続けられる有難さに加え、隊長という使命感、また長年のブランクによる一般人との埋め難い収入格差を一気に詰める好機として、2‚3のピンチにめげず、ついに最後まで気を張ったまま完走しきったのでした。

    ☆

今、警備員となって初めて自ら有給休暇を取っています。残念ながら今回は海外旅行など望むべくもありません。が、街なかでハロウィンの飾り付けを見かけて、ふと5年前の自分を思い出すや、地中の穴に吸い込まれるようなめまいと戦慄を覚えました。


5年前の今頃。就労準備支援プログラムに則って私は介護の道を歩もうとしていました。公共職業訓練校にて、介護職員初任者研修も終盤を迎え、老健とデイサービスでの実習も終えて、気の合う受講生どうしがグループとなり、時節柄ハロウィンパーティーを開いたのでした。


すでに2ヶ月間の研修で、他の受講生と私との感覚の違いや生活経験の差は誰の目にも明らかでした。気だてのやさしさや見かけの端正さ以外、自分でも介護にそぐわないことはわかっていて、就労という目標があっても一向に乗り気になれません。生まれて初めてハロウィンの被り物をし、頬にペイントして、絵や折り紙で教室を飾り付けながらも、私には正直ままごとのような閉塞感しかありませんでした…。


それでも、1つの資格を得て介護職にチャレンジできたことは、社会復帰への欠かせぬ一里塚でした。しかし、やはり定着できなければ仕事とは言い難い。生活自立を果たすためには、職や職場を転々とするより、まずひと所でものになることが先決だとつくづく思いました。警備員でもそれは同じです。

    ☆

最近のブログで強調しているように、今の私は、引きこもりや死に学問で無駄にした膨大な歳月を取り返すべく、倍速倍々速で生き直すくらいの気概で再起を図っています。おかげで生活自立と貯金についてはかなりの成果が出せました。あとは仕事の合間を縫って、自分が不遇の間に志してきた思索=詩作を元手に、建設的な話ができる智者とつながれるようなアプローチを試みていければなお前進です。


最後に、私が11ヶ月通い詰めてその進捗ぶりを見守り、移り変わる作業風景から絶えず多くを学んできた現場『イオンタウンふじみ野』の11月開業を待ち望み、その末永い盛況を願ってやみません。

≪終楽章的光景を前に…≫

無駄にした歳月をとにかく挽回したい。
しかもはつらつとして俊敏でありたい。


コロナ禍で混迷を極めるインテリ界隈を尻目に、
今の仕事(交通誘導警備)のおかげで自分のほうがはるかに健康だし頭も回り気力も充実しています。


もとより何の糧にもならなかった戦後知識人とマスメディアと党派性。その無価値なドグマを最終的に廃棄処分し終えたとき、私は既に40歳の孤立無業者でした。


人文学の深遠な知の系譜に憧れながら、眼前に飛び交う言葉は国内外とも第二次大戦の遺恨をこじらせた憎悪と罵倒と卑下ばかり。不毛。ただただ不毛。


無駄にした歳月をとにかく挽回したい。
しかもはつらつとして俊敏でありたい。


幸い私には、当ブログを特徴づける『四時歩武和讃』の詩篇群があり、既に主要なものは記事内で公開済みです。ただ、2016年に警備員として社会復帰してからは、生活自立、生き直しに重点をおいたため、詩作の手はほとんど止まっています。(希少な例外は『不撓港詩篇』。)


現在、私が隊長を務める現場、大型ショッピングモールの工事は終盤を迎え、この1ヶ月で建物周りの駐車場・遊歩道・公園の舗装が一気に出来上がりました。仮囲いも外され、土木工事は最後の追い込みで、昨日は難関のバスロータリー出口舗装を終え、あと4日で周辺道路の舗装を完了する予定です。私の役目も長くて20日までとなりました。


モールの南側壁面や入口にはデジタルサイネージのモニターが設置され、テナント工事も進んで、夕方になると建物全体が不夜城のようにライトアップします。昨年12月に警備の4人めとして現場に遣わされたときには思いもよらなかった壮大な結末。


でも、これが職業人として本来生くべき姿なのだろうな…。今の私はそう思います。自分の父にしても、元は零細な間仕切り職人だったわけで、私の有名中学合格でエリート願望一直線に目が眩むことさえなければ、(「見返してやれ」が当時の父の口癖でした)物堅い一職人として、もっとあたりまえの社会のありように目を開かせてくれたはずでした。


ともあれ、失敗した過去はもういい。警備員となって4年8ヶ月。ドーミーイン後楽園の全工期を抜いて自己最長を更新したこの現場は、私にとっての現時点での集大成となりました。ここでの経験が、いつかより高次な思索→詩作に昇華して、当ブログで公開できたら幸せだな、と思います。

≪11分の1のリカバリー≫

大型ショッピングモールの工事は、内装・外構ともに急ピッチで進行中です。内装は、ゼネコンからテナントへと徐々に重心が移り、作業員総数も500人近くまで増えました。それに伴い、建物内の動線も、シャッターの開閉や塗装・床タイル貼りなどで変更・迂回の連続です。また、いちいち内履きに履き替えなくては奥の詰所に到達できません。


外構もめざましい変容を遂げつつあります。難関だった旧郵便局解体・埋め戻しがついに完了し、余った残土の山もダンプでほぼ搬出。市役所前交差点からモール本体まで、2本のヒマラヤスギの巨木をランドマークに、カラー舗装の拡張された歩道と、緑地公園の整地作業が、通行人からもフラットに眺められるようになりました。


場内の工事用敷鉄板もトレーラーで殆ど搬出され、残るガタガタの砂利道とゲートはすべて、広大な駐車場を完成させるまでの土木車両専用出入口となりました。


8月の猛暑と、全日6:30開始の長丁場。さらに今月からは私がモール本体の解錠・開扉も行い、6:00到着即、着替えるより先に仕事に入っています。(ヘルメット着用・内履き持参で。)


当初の工期を大きく超過して、苦手な酷暑も出ずっぱりで隊長を務めあげるはめになった疲労・気苦労。勤務時間も6:00~18:00と丸半日。つい先日までは、寝ても覚めても警備や現場に関わる何かしらの雑務や確認事項で頭も身体もいっぱいいっぱいでした。

    ☆

さて、その私が警備の仕事に入ってから、もう4年7ヶ月が経ちました。


以前述べた通り、それまでの歳月はといえば、非正規雇用の職歴を挟みつつも、引きこもり・無業・失業のブランクが次第に長期深刻化していく孤立の泥沼でした。2015年5月から就労支援員のサポートを受け、半年がかりで11月には介護職員初任者研修資格を得て老人ホームに就職するも失敗。それまで一度たりとも顧みなかった警備会社の面接に自ら飛び込んでおずおずと新任研修に臨むや、号令口調で「回れ〜右!」…。支援員も首を傾げたその無茶な飛び込み。それがなんと、社会復帰への道にほそぼそながら点々と、破線のようにつながっていったのです。


そして交通誘導の4年7ヶ月余は、10倍すると、ちょうど警備以前の私の全人生に相当する長さだと気づきました。


つまり私は4年7ヶ月間かけて、失敗した人生の11分の1だけ挽回し、取り返すことができたのです!


むろん人から見れば、ツッコミどころも多いでしょう。幼少期や学校時代も一緒くたの雑な計算だし、有名中学Kに合格した直後などは、人も羨む順境そのものかもしれない。でも達成感や手応えとしては、手放しの称賛に包まれてユーフォリアに陥ってしまった幼稚な中学時代とは全く真逆の、生活困窮者自立支援制度に則ってのダントツビリ・リスタートだからこそ、生活自立と本気度の点で、人生少しは挽回できたかな、と日焼け顔で喜べる今なのです。

≪工事も大詰め。問われる真価≫

お盆明けの猛暑全開から3週間。
ブログに向かう気力も体力も微塵も残されないほど、完膚なきまでに現場漬け、交通誘導警備に注ぎ込まれた毎日でした。


唯一、関東の猛暑がピークに達した日の朝、現場で熱中症(中程度)を起こし、到底継続困難と自覚したため、自ら会社に連絡し、管制に代わりの資格者を要請しました。実際に交代要員が来たのは昼前だったので、それまでは他の隊員へ休憩を回すべく自己犠牲的に炎天下に出ている時間もありましたが、半日だけでも早退できたおかげで翌土曜日もなんとか出勤できたのは幸いでした。(が、後日明細をみたら、結局この日は無給にされていました!💢)


これほどの無理を強いられるのも、私が大型ショッピングモール一帯の大工事に関わる職長の一人で、かつ資格者配置を義務付けられた県道側を主導する交通誘導2級警備員だからです。


その後外構工事が進展して経路が代わり、職人らが朝現場入りするための通勤車両の入口は別の道路に移行して、私の負担は若干減りました。しかし代わりに県道側は、今度はテナント関係の搬入車両が激増し、工事も内装監理主体の新局面に入ったのです。


さらに、敷地内で4月まで営業していた大きな郵便局の建物を、地下まで根こそぎ解体してそのガラを運び出し、土で埋め戻す作業も、ついに終盤を迎えました。役目を終えた大型重機が、分割され、低床トレーラーに載せられて県道を爆走していく姿は感慨ひとしおでした。


ほかにも、夜間や日曜日の巡回警備が廃止になり、代わりに私が朝一番でゲートとモール本体の鍵を開け、トラックヤードのシャッターを開ける役目を仕りました。そのため、今は6:00から着替えもそこそこに館内巡りの、息つく間もない慌ただしさです。


2年半前、自身初の常駐現場だったドーミーイン後楽園建設の際も、終盤は月いち休みで交通誘導的にも無茶ぶりの連続でした。工期が押している現場はどこでもそうらしいですが、今回は特に大規模で、作業員総数も最近再び400人を超える毎日。あと2ヶ月の辛抱だと思っていますが、私の場合、過去の長すぎた引きこもりブランクへの反省と悔恨から社会的再接続へのモチベーションが人より高いため、これも得難い経験だと首肯してなんとかやりきってしまいたいのです。


今年はコロナ禍を筆頭に、国内外で言論・主張が荒れに荒れ、私が当ブログで志してきた自作詩篇・四時歩武和讃群の精神など、ひとかけらも発現できる余地はないと端から諦めています。今の現場で役目が終わるまでは、警備の仕事に専念するつもりです。でもそのあとは、有給休暇も使って、しばらく思索をまとめてみたいと思います。

≪出直し近況報告≫

長梅雨も明けてしまえば汗びたり。

連日朝6:30からショッピングモールをバックに熱い日射しを浴び続けた私。午前も午後も、県道側・市道側どのゲートにいても陽炎の立ちのぼるような暑気の中で、何とかお盆までの勤務を全うしました。


7月の保安警備で大怪我をした隊員の件は、半年に一度行われる警備会社の現任研修でも早速喧しく取り上げられました。また、そのとばっちりでお盆期間中の現場巡回を私も3度引き受けた次第です。


しかしあとの日は休み。おかげで1年ぶりに友人と一緒に登山に行けたのは収穫でした。300人現場の常駐者だけに、友人の車でのドライブは正直不安もあります。が、コロナ禍の厳しい状況下にあってお互い仕事も堅調。特に自分は社会復帰4年半にして、およそ交通誘導警備の仕事としては最大級の規模と役割と勤務時間とをあてがわれています。過去の恥ずかしいブランクに目をつぶれば、現在の私(51)は、生活の質や貯金額からみても、もう普通に市井の人として通用するのかもしれません。ちなみに登った山は苗場山(2145m)で、ボリュームのある山体と、頂上で急に開ける茫洋たる湿原の眺めが好対照でした。


 (前2回のタイトルで着想が上手くまとまらなかったので、いったん破棄しました。すみません。)

≪恐竜、労災、知覚変動(中編)≫

日曜日、保安警備の日勤者の思わぬ事故。朝、新しい詰所へ初めてたどり着いた直後に、ノーヘルのまま階下へ転げ落ちたようです。


月曜朝一番に現場で血のクレーターを見た私も、ああヤバイわ、と激しく動揺。ひとまず書き置きを残して県道側車両誘導へ急ぎました。朝礼後は当然ながら現場の所長や監督、警備会社の営業部長ら管制の者から聴取と質問責め。さらに夕方には大雨の中、現場から離れた工事事務所にて、統括所長をはじめ、うちの警備の管理職2名と隊長の自分が揃って、ゼネコンの本部の人を前に事故報告とお詫びと対策会議を行うに至りました。


職人や作業員が怪我や体調不良により救急車で運ばれるケースは時たまあり、つい先日も1人持病で倒れて私が緊急車両を誘導したばかりです。しかし巡回のみの警備員が無駄に大怪我をしたのでは面目がたちません。幸いその後同隊員は一般病棟に移ってかなり順調に回復しているようですが、最初に脳挫傷の診断を見た時には私も極度の不安で動悸が止まりませんでした。

    ☆

そして次の日曜日、彼の代わりに日勤の巡回警備に入ったのが他ならぬ私でした。現場は全休。ただし電気工事業者のみ許可を得て作業。そのため館内停電で扇風機もつかず自販機も使えません。そこで、同じ敷地内にありながら普段入ることができない旧郵便局解体現場に、巡回のため足を踏み入れてみました。


当ショッピングタウン建設現場は、交通誘導警備員にとって、多面的な要素に満ち溢れています。本体の建設・外装・内装工事→《建築》、道路整備や配管・側溝・植栽・駐車場舗装などの外構工事→《土木》、そして敷地内に残った旧郵便局の取り壊し→《解体》。さらには、朝夕など作業員や現場関係者の通勤車両をゲートでさばいて屋上駐車場へ出入りさせる《駐車場警備》的要素も含まれます。


加えて、侵入者防止、いわば泥棒よけのために、夜間・休日に《保安警備》をつけているのです。私は、仮囲いの内側にあって、いつも場内から遠巻きに見ていた解体重機群のダイナミックな動きを、目と鼻の先で仰ぎ見てみたい、そんな思いに駆られました。過去にも都内の現場で、もっとはるかに大がかりな解体工事に立ち会ったことはありますが、当現場は郵便局1棟のみを、限られた期間で効率よくぶっ壊して土で埋め戻すため、5台の重機の3密ぶりが半端でないのです。

  (続く)

≪恐竜、労災、知覚変動(前編)≫

雨続きのひと月の間、ショッピングタウン建設現場は着々と目に見えて様相を変えていきました。


敷地内に3棟あった2階建てプレハブ棟は、1つを残して解体搬出され、祭りの舞台のような朝礼会場も仮設トイレと共に撤去。


作業員詰所はショッピングモール建物内へ移され、職長のみ数十人が参加する朝礼は、その階下の室内プール予定場所で行います。


建物の外周も、商品の搬入口となる予定の北側トラックヤード方面は舗装まで終わりました。しかし正面入口に通じる南側の広大な駐車場予定地は、ブロックや側溝の取り付けが膨大な数に及ぶ上、立ちはだかる旧郵便局の建物を地下まで根こそぎ解体する作業と並行して行うため、まだまだ先が長そうです。


ここしばらくブログの更新ができずにいましたが、無理もない話です。交通誘導警備の隊長(職長)として、資格者配置路線に指定されている県道側での車の出し入れがメインとなるため、1日たりとも欠けることが許されないからです。


最近では日曜日でさえ、現場内巡回警備の突発事態により休むに休めない状況となりました。


それは、作業員詰所を建物内へ移した後の日曜日。日勤で巡回を担当した隊員が、入る必要のない工事階段から転げ落ちて頭を打つ大怪我をしたのです。しかも、血だまりを朝礼会場降り口にべったり残しながら、痛みを我慢して午後までどこにも連絡せず、発覚が遅れた上に翌朝病院で直ちに集中治療室行きとなったのでした…。

  (続く)

≪関わるまいと決めた論争≫

仕事で目いっぱいで、更新が遅くなりました。


朝は6:30から現場通勤車両の県道側での誘導。朝礼後は広大なショッピングタウン工事エリアの各所で搬入出車両誘導と生コン打設・合材進捗状況の把握。また別班の警備員らによる外構工事の片側交互通行の様子も見て回ります。午後2時前にその日の搬入のめどがつくまで自分の昼休みは遅らせ、唐突な予定外作業にも対応。誘導灯も二刀流にして県道を捌く機会が増えました。



建物自体は鮮やかにできあがっており、周囲の広い敷地もブロックによる区分けや整地が進んできています。ただし市道側正面には今解体中の旧郵便局が夏まで居残り、秋口になってようやく、モール正面玄関へ通じるバスロータリーと交差点の工事に取りかかれる状況です。


簡潔に言えば、想定よりも工期が延びた、ということです。警備の隊長を前任者の音信不通のため急遽引き受けてから丸5ヶ月。私自身は長くてもこの6月まで全うしたら次に引き継ぐつもりでいました。しかしコロナ禍の困難な時期を1日も欠かさず現場に立ち続けた自分に代わりうる者は、もう当分考えられないようです。トータルな状況判断や、早出で遅メシも可能なタフさを兼ね備えている必要があるからです。


とはいえ、きたる夏の現場は厳しいです。
以前、当ブログで書いたように、炎天下の交通誘導は灼熱地獄。体質的に暑さに強い人もいますが、猛暑続きの一昨年、私は頭が焼けてしまい、今日出たら死ぬぞ、と直感して早朝会社に詫びを入れ、そのまま10日ほど仕事を休みました。頭がやられたら、私の最良の拠り所が失われてしまいます。警備の仕事は、確かに40代後半の私にかけがえのない社会的再生をもたらしました。が、自分には同時にもう一つ、どうしても譲れない志があり、ブログの副題にもあるとおり、精神復興への決然とした歩みを、ライフワークとして成し遂げなければなりません。

    ☆

話はややそれますが、3~5月にかけて新型コロナへの警戒が極度に高まっていた時期、私は現場に傾注していてスマホに時間を費やす暇はありませんでした。しかし画面を開けば嫌でも目に入ってくるのは、著名人や物書き・ネット論客らによる政治家憎悪と、党派性により分断された罵詈雑言のとめどない応酬でした。大状況が起きると我を忘れて悪者攻撃の輪にのめり込まずにはおれない、9.11や3.11の時と同じ低級でヒステリックな糾弾口調が言論界を見事なまでに覆い尽くしていました。


またダメだ…。


私は改めて同時代に自分の出番がないことを痛切に噛みしめました。以前ブログでも幾度か触れましたが、生来おくてな性格で、対社会的な気構えのできるのが極めて遅かった私にとって、文系の知の舞台ともいうべき言論界に、信頼するに足る知識人がゼロだったことは、大学卒業後の逡巡や迷走、引きこもりやワーキングプアへの転落の根本原因の一つだったのです。大学で所属したドイツ文学科など、その一例に過ぎません。


一方で今回は、失望ばかりではなく、意外な発見もありました。ネット上の少なからぬ意見が、政治家以上に、ジャーナリズムの偏向や独りよがり、非建設的な批判ありきの決まり文句にはっきりと引導を渡していたことです。また、著名人の意見に安易に流されず、当代一流のアスリートや劇作家・俳優らの見解に対しても手厳しい批判が寄せられていたのも新鮮でした。私がブログで再三指摘してきた、話題性万能のエンタメ志向や娯楽太りへの懐疑も、テレビ業界や増え過ぎた芸人へのうんざり感と捉えれば、意外と的を射ていたように思えます。


いずれにせよ、社会復帰によって気力も充実し、これからに向けて耐性を蓄えている今の私と、人を属性によってむやみに上げ下げするしか能がない、プラカードやシュプレヒコールレベルのポリコレインテリ界隈と。


どちらが本当の知的探究者だったか、当ブログを通読すれば、おのずと見えてくるでしょう。その時までなんとか今の仕事で頑張り抜きたいものです。

≪半年後に咲く花々②≫

今から5年前、45歳の私はすべてをさらけ出して公的な就労準備支援事業の対象者となり、ゼロスタートで社会復帰への新たな一歩を踏み出しました。以来、始めは処女の如く、後は脱兎の如し、を地で行くかのように、飛躍的充実を遂げながら現在の務めに至っています。


と同時に、それ以前と面目を一新した点として、日々の心象風景がすごく鮮やかになりました。


新しい環境や初めて見聞きすることの連続で、頭も心も生気を取り戻し、枯れていた植物がよみがえるように、緑やつぼみを宿し開花し始めたのです。


私の場合、これは比喩としてだけではありません。就労支援プログラムから介護へと導かれ、一転して自ら警備へ。その節目となる出来事のたびに、そこには身近に緑があり花があり、それを愛おしむ感受性あるがゆえに、いわば回復期の喜びに満ちた過程そのものが季節の花に投影されていたわけです。


たとえば今の時期、道路際の植栽の端に背の高さほどまっすぐ伸びて手のひら位の花を優美に咲かせるタチアオイという植物があります。気温も湿度も上がり、日差しがぐんと強くなるこの時期、ひょろ長くも一本立ちして、塔の四方にパラボラアンテナを一気に開花させる鮮烈さ。この光景こそ、まだ就労支援員同伴のもと、職場見学やグループワークに明け暮れて就労など見果てぬ夢のようだった5年前の私に、まばゆいほどの希望と変容を予感させる大輪の花なのでした。やがて夏になり、就労体験や介護の初任者研修に向けて具体的に話が動き出すと、こうした興味はしぼみ、次に花の話ができたのは、初任者研修で親しくなった50代女性に教えた店先のランタナの花でした。半年後のことです。



警備員になってからも、私は随所で植栽や花に目を留めます。マンションの外壁補修工事などに就くと、管理人など年配者が多いため、たとえばエントランスまわりのシャクナゲの花を褒めたらすごく喜んでもらえたこともありました。


警備員検定の一つ、交通誘導2級を受けた時も、本番前、つい花に目がいってしまいました。実技試験はグランドを借りて行ったため、教官に先導され、70数名が一般道を歩いて移動。受検者は県内の主な警備会社に原則1人ずつの割り当てで、ゼッケンをつけて講習と考査(試験)に臨みます。


4月の半ば、講習4日めにして初めて空も晴れ。センター内体育館での命令調の実技講習に辟易していた私は、グランドへの道中、就労支援員と初めて面談した2年前を思い出しながら感慨深く歩いていました。ふと、通りの一角に一株だけ白い可憐なドウダンツツジが鈴なりに咲き誇っているのを見つけました。「見て! ほら、ドウダンツツジ!」思わず周囲に呼びかけてしまい、周囲のゼッケンみなドン引きに…。


登山と同じく、花の話題も時と人を選ぶものですね。

≪半年後に咲く花々①≫

今の大規模工事現場に加わってから、もうじき半年になります。


また、その直前、ぴったり半年前には、私は3度めの韓国一人旅で大邱空港へと降り立ちました。


あれから180日あまり。仕事も世界も、本当に大きく様変わりしました。


工事もたけなわで突如音信不通となったわが隊長。急遽その日から私が交通誘導の指揮をとってかれこれ4ヶ月。


かたや世界遺産と登山・登拝・街歩きを愉しんだ大邱と慶北は、よりによってコロナの集団感染で中国武漢に次ぐ緊迫した状況に追い込まれました。


その後幸い日韓ともコロナ禍は小康状態を保つに至っています。が、経済・雇用情勢の悪化は凄まじく、影響は今の仕事・警備業界にも広く及んでいます。緊急事態宣言中の工事停止やイベントの全滅、雑踏の忌避、インバウンド目当てのホテル計画の中断・中止等で仕事がなくなり、見切りをつけて辞めた警備員も多いはず。


そうした状況下、私自身はといえば、朝6:30から11時間の工事関係車両捌きで心身をすり減らしつつも、週6日常勤のため収入は安定しています。今年は海外(韓国)旅行もまず無理なので、預貯金額は自己最高を更新中。


かつての物流倉庫勤務時代もそうでしたが、細い見かけによらず、繁忙期の現場対応も力仕事も、やればできたんです…。結果的に見れば、両親と揉め続け、長年の失意と社会的ブランクにうなだれていた45歳までの文弱・逡巡・無為無策ぶりが、返す返すも残念でなりません。


だからこそ、当ブログを始めた頃の、高学歴系引きこもりや中高年孤立無業者への境遇的な思い入れはもはやすっかり消えました。今はただきっぱりと、過去への繰り言・引きこもりの贅肉をかなぐり捨てよ、と断言できます。


有名精神科医や当事者支援ジャーナリストの甘言百万陀羅はことごとく退け、『働いて生き直す』たった7文字のシンプルな目標を立てて真剣に再起してほしい。そう切に願います。まして時局論争や中傷合戦にかかずらうなど愚の骨頂なので。