四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪100記事目、3年半の到達点≫

本日、はてなブログ開始からちょうど3年半を迎えました。


長期の無業失業ブランクの後で、警備員として社会復帰したのは、その前年2016年の1月。


まだその頃はネットでの発信ができるような精神状態ではありませんでした。1日でも長く仕事を続けて日銭を稼ぎ、生活困窮者自立支援制度の対象者として、これ以上就労支援員を失望させないためにも、仕事定着と生活立て直し、そして親と縁を切り恒久的な一人暮らしに向かえるよう、不安と緊張の毎日だったのです。


交通誘導警備員として飛躍のきっかけとなったのは、16年秋の大きな土木工事現場でした。率先して動く私のフットワークの良さを認めた監督から、しばらく私に仕切らせるよう会社に要請があり、私は12名ほどのメンバーを朝一各ポジションに振り分けたり、現場でセンターに立って工事車両を誘導する役にチャレンジしたのです。


経験十数年がゴロゴロいて検定資格者も複数いる中でペーペーの自分が指示を出して従わせる…。時には工事の段取りを自分が勘違いしていたり、片側交互通行でミスって厳しい視線を浴びることもありました。


しかしこの現場で管理職を含む多数の隊員たちと組んで最後まで大過なく終えたことで、私にも交通誘導2級資格を受けさせる機運ができたようです。翌年5月私は2級を取り、6月末にはいきなり都内白山通りのドーミーイン後楽園建設工事常駐隊長に抜擢されたのでした。


当ブログ『四時歩武和讃』は、ドーミーの工事が既存建物内部の解体を終え、外装・内装を一から造り直す、そんな時期に始まりました。そして、最初の2つの記事≪序文①≫≪序文②≫では、私の略歴とともに、長年の私の知的な問題意識やテーマが簡潔にまとめられています。

    ☆

そして2021年5月現在の私。


川崎の著名な医大病院敷地内の新病院棟建設プロジェクトで、交通誘導警備十数名の隊長=職長として働いています。


朝はいつも始発。それどころか、工事車両搬入時間の早まりに伴って、最近は自分の最寄り駅も、4時半の始発がある路線に変更し、その駅まで25分かけて自転車で通っています。また、現地に着くと、朝一搬入の大型車両群は自分が誘導し、7時からは次の早出の隊員らに託していったん詰所へ戻ります。


勤務中は業務用無線機とトランシーバー(インカム)を両方使います。無線機のほうで遠い各班との連絡を取り、トランシーバーで自分のグループのメンバーに指示を出すのです。さらにスマホで監督たちからの急な搬入や無茶振りの電話に応じるほか、職長アプリで送信される連絡・変更事項も時々チェックします。


現場の最上部には保育園があり、朝は保護者の送迎の車が急坂を登り下りして、朝礼後の作業員らの現場への動線とまともにぶつかります。さらに、工事車両どうしがかち合うこともあり、私は誘導灯を二本使って誘導する日も少なくありません。


朝から作業終わりまで、私の伝票にまとめられた各隊員の勤務時間チェック、運転手から預かった伝票や納品書などの提出、各ゲートの施錠や最終確認などがあるため、結局帰りも全隊員の最後になります。

    ☆

せめてもの幸いは、収入が増えて経済的な心配がほぼなくなったことです。


2020年、コロナ禍のさなかにも私はイオンタウンふじみ野新築現場の隊長としてフル出勤し、貯蓄額は予定を大きく上回りました。
この春からまた今の現場に定着したことで、引き続き収入が安定しているものとみなされたのでしょう。GW前、所有するクレジットカードの会社からインビテーションが来て、ゴールドカードから年会費を払って、ついにプラチナカードへの変更を果たすことができたのです。


来年こそはコロナ禍が下火になって、海外旅行を再開できるかもしれない。そのときプラチナカードがあれば各国の空港で相応のサービスが受けられます。俗物っぽく見えるかもしれませんが、私にとってプラチナカードは、わずか6年前、生活困窮者自立支援法の下でケースワーカーらによって就労準備支援プログラムが作られた無一文のころから今日までの、ほぼ警備一本で成し遂げてきた社会復帰のあらゆる再生努力の集大成であり認定証なのです。

≪人員20名。職長の重圧と充溢(後半)≫

(続き)
さて、隊員20人のうちあとの14~15人は、病院各館を結ぶ構内道路の掘削工事に伴う大増員でした。


医大〜病院各館、さらに保育園…と、順次高台へ上っていく立地になっています。
外来や送迎で訪れる一般人の車は、坂を上がって初めて『工事中』の事態に直面することになります。病院のインフラに関わる埋設配管工事のため、掘る穴も深く、通れる道幅は狭められ、工事車両はもとより、救急車の動線も絡むため、片側交互通行のメンバーには熟達した隊員を重点的に配置しなければなりません。


問題は、連休前まで、さらにその先の病棟間を通行止めにして掘削・配管工事・擁壁解体・道路整備を同時並行で行っていたことでした。


坂の上部は屈曲した急坂を連ねて保育園へつながり、その先に工事ゲートがあって頂上の構台に達します。しかし、前述の片側交互通行区間を越えたあともなお一般車を長々迂回させるとなると、かどかどに誘導員をつけて交信させ、順路の説明もさせなくてはならないのです。


しかも迂回路の核心部が急勾配のヘアピンカーブになっており、一般車(保育園への保護者の送り迎え)や4t·8tダンプ、搬入トラック、医療用タンクローリー、重機回送車まで1台1台すべて切り返しやバック誘導で慎重に通行させる必要がありました。私がこの現場の隊長=職長になってから、昼の交代以外は基本的にずうっとこの場所を1人で担当しながら、無線で各班に指示も出していたのです。


ところで、隊員が20人もいれば、ひどいのも数名必ず混じってきます。例年4月は繁忙期も終わり、昨年ならコロナの影響もあってダメ隊員にはほとんど仕事が回らなかったのですが、今年はこの現場の大増員もあって最悪のメンツも連日フル稼働です。が、ただ立ってるだけで、工事ゲート内に迷い込む一般人に見向きもしないうつけ者。無線で再三促されるまで配置にすら向かわぬ怠け者。詰所で他職打ち合わせ中に大声で大人用オムツ着脱話をおっ始め、通行人には無駄話ばかりしていた大馬鹿者。


ほかにも、有料老人ホームの利用者かと見紛うほど認知症の進んだ者や見るからに病身の者(身体・精神各1)も来ました。しかもかれらはすべて新人ではなく他社の警備員経験者なのです。


『誰でもなれる最底辺の職業…』
5年前、何の予備知識もなく今の会社に飛び込んだとき、そんな世間の通念すら私は知りませんでした。しかしその後隊長・常駐経験を積んでいくなかで、職業人として認められれば他職とも普通に渡り合えるとわかり、それを励みに続けてきたのでした。


昨年来コロナ禍による失業や収入減で、生活困窮者が増え続けています。雇用されていると思って日々舐めきった態度で漫然とその場をやり過ごしている数名に関しては、連日会社に抗議した挙げ句、ついにマジでブチ切れて本社へ怒鳴り込み、管理職相手に猛省を求めました。実はふた月前にも、私より若い資格者の隊員が、レベルの低い隊員らと同じ待遇でこれ以上やってられるか、とうんざりして8年で当社を辞めていったのでした。


幸いその後、先述の通行止め区間の道路は出来上がり、迂回路に立たせるメンバーはいらなくなりました。明日からは総勢12名ほどに減らせそうです。連休期間中私は全休でしたが、現場の状況を見ておくため定期券利用で2度構内を訪れています。


《追記》
連休中、気分転換で登山にも出かけましたが、マイナーな岩山でルートが崩壊しており、人っ子一人いない急な崖(足元は滝)で心底冷や汗ものの撤退でした。

≪人員20名。職長の重圧と充溢(前半)≫

暖かな日射しに包まれる日が増えました。
医大病院敷地内の至る所で、また新たな花が人知れず咲き誇ります。


先日は、病院前のバスロータリー近くで朝一のラフタークレーンとPC運搬トレーラーを誘導するため1人で待っていたところ、すぐそばでカルミアの花のつぼみが密集しているのを見つけました。アポロチョコそっくりの造形もさることながら、五角形に開いた薄ピンクの花の緻密な仕掛けとデザインがとりわけ大好きな花でした。


私は交通誘導警備の職長です。なので毎日坂の下から構台のてっぺんまで必ず医大敷地内各館の動線を歩いて回ります。現場入りしてまだわずか2ヶ月ですが、すでに梅や桜や乙女椿、ハナミズキドウダンツツジの花期を見守りました。また、巡回中、仮囲いの内側で躯体工事の現場を移動する際には、職人たちと同じく足場を使って登ります。するとはからずも趣味の登山と似たような高度感を味わえるのです。構台からはるか下方に見下ろす鉄骨とコンクリートの地平は、この工事がまだほんの1合目に過ぎないことを実感させます。これが来年には12階まで積み上がるのですから…。

    ☆

さて、連休前まで、この現場は最大20人もの交通誘導員を出していました。常時90人台しか稼働していないわが警備会社では出せる限界を超え、本当は21人必要だったのに何一つできない無能な者をかき集めて20人にされるなど、悲惨な配置の日がたびたびありました。


このうち『新病院棟』本体の工事に関わるのは5人ほどです。大学病院正面のバスロータリーと来院者の動線を横切って大型の工事車両が長い坂道へ出入りするため、常時2~3人で交信し連携しながら安全に誘導しているのです。


記事の冒頭で朝一私が立っていた場所がまさにそこです。
最近は鉄骨建方作業のため、極太の柱や梁をドンと載せたトレーラーや大型トラックが容赦なくバス通りへ上ってきます。加えて生コン打設の日はミキサー車がひっきりなしに夕方まで来続けます。生コンを打設箇所へ送るポンプ車が構台上に3台居並ぶ日もあるといえば、工事の規模が想像つくかもしれません。

     (続きはあとで)

≪18人を率いる職長となって≫

川崎の大学病院新病棟建設現場。
体調不良を訴えていた警備の隊長は、静養を兼ねてそのまま入院となりました。そのため、数日間の引き継ぎを経て、以来私が正式に職長です。
人員は各所で計18~19人。翌日手配する隊員数は、打ち合わせ後に私が1人で決めて会社に連絡しています。


2016年1月に恐る恐る警備員デビューしたとき、いや、翌年11月、交通誘導2級者としてドーミーイン建設の真っ只中で当ブログを始めたときでさえ、こんな巨大な未来が待っているとは全く想像できませんでした。


そもそも過去の職歴(全て非正規)のどれよりも、警備の仕事の方が長くなりました。(それでも5年ちょいですが…。) また、これまで何度か触れたように、初めは当ブログも、度重なる孤立無業からの社会復帰とどんづまりの家族関係からの完全自立を目指す、40代後半からの生き直しがメインテーマでした。


その後経験を積んで職業意識が高まるにつれ、過去の失敗の半生については次第に影が薄れていきました。いまはもうそんなことより、『 社 会 復 帰 後 、ど こ ま で 行 け る か 、伸 ば せ る か 』 のほうが我ながら断然興味深い。ならばその捲土重来ぶりを軸としてこのブログを続けたほうが有意義なのでは?
そう、私は考えたのでした。


以前はよく見ていた高学歴系引きこもり経験者やフリーター出のネット論客らの著作やブログ・ツイッターをたまに覗くと、ほんと小っちぇーなあ、と感じます。いくら達者に理屈を並べ引用を連ねても、批評家諷刺家はしょせんひ弱。結局未来があるのは、就労支援や職業訓練を受けてでも懸命に立ち直ろうとするひたむきな志だけなのでしょう。
ただ残念なことに、社会復帰を果たしたあと、職業人としてのさらなる経験や飛躍まで語れるような発信者、となるといまだあまりにも稀なのです。

≪『以下16名』を担う気苦労!≫

SNSの更新と交通誘導の交信には1つよく似た点があります。それは、発信したそばから状況が一変し、あわてて追加連絡や趣旨の変更を余儀なくされることが多い点です。


社会的ブランクの長かった私は、現在までこのブログしか扱っていません。時評家や目立ちたがり屋ではないため、ツイッターフェイスブックの即応性は私にはいらないと感じていたからです。


ところが、前回のブログで、私はいま土木工事現場をフリーで回って交通誘導している旨述べました。が、実はその頃から、(前月初めて新規で入った)大規模建築現場に毎日通う状況へと事態が急変していたのでした。


そこは神奈川県内の中核となる医大と大学病院。構内に順次新病棟を新築し、最終的には現在の本館を解体して全面リニューアルするという、6年がかりの壮大なプロジェクトでした。もちろん病院も医大も通常営業で、バスロータリーはひっきりなしにバスが往来、救急車は坂道を出入りし、工事車両と一般車が同じ通りですれ違う、至る所に誘導員の配置が必要な現場です。


うちの警備会社でも最大の重点現場で、本社所属の中堅・ベテランが常駐し、工事箇所の拡大につれて人員も増強。最近は12〜14人体制で交通誘導にあたっていました。


ただ私の住まいからは地理的に遠く不利で、始発に乗ると4回乗り継いだ末、さらにバスという不便さのため敬遠していました。しかし埼玉の所属隊員が既に主力で定着していたため、やむなく私も助っ人として臨時登板したのです。


が、全体を率いる60代の隊長も心身共にお疲れだったようで、先日病院で診てもらうことになりました。それがなんとサブリーダー格2名の休みと重なってしまったのでした。


その日、まだ現場の誘導上の決めごとに不慣れだった私は、片側交互通行で組んだ主力のひとりから畳み掛けるようにダメ出しされてすっかり嫌な気分になり、もうこの現場は降りるとまで言いました。ところがその夜本社から電話があり、隊長不在の間、代理で現場をまとめ、打ち合わせにも出て予定人数を報告してほしい、と指示されたのでした。


結局翌朝7時前から、ゲートの解錠やらKY(危険予知活動)用紙の記入やら新規入場者への対応やら弁当の注文やら、隊長が慌ただしく行う一連の作業や雑用をテンパった状態でこなすはめになります。


幸い現場慣れしたベテランが参謀役となっていつも通り各ゲートに指示を飛ばしてくれたため混乱は免れました。しかしその後も打ち合わせや主な業者への予定伺いなど、どこにどの業者が入っているのか自分で駆けずり回って探す必要に迫られ、気の休まる暇がありませんでした。そして痛感したのは、常連の主力隊員といえども、交渉事や事務的な作業などは、いかに隊長に任せっきりでちっともわかってないかということでした。


結局、木〜土曜の3日間、名目上の隊長として代理を務めきりました。総勢15·16·16名。幸い、週明けは隊長が復帰しますが、工事全体の機構や段取りが徐々に頭に入ってきた私も、もう当面は抜けられないとみられます。


もっとも、昨年のイオンタウンふじみ野新築の時も、後から現場に加わって、2ヶ月後には急遽隊長になりました。未だに社会復帰の思いが根底にある私にとって、今度の現場、病院裏に聳え立つ3本のタワークレーンや清水の舞台のような高度感のある構台、坂道で大型車両の行き交うダイナミズムは、確かに探求心をそそる対象ではあります。長期に通うのは無理にせよ、ここでの工程の構築感は密かに目に焼き付けておきたいと思いました。



もっと俗な現場エピソードを交えて書いてもいいのですが、明日も始発出発なのでここまでにします。

≪警備員の篩も厳しいゾ…≫

繁忙期のためブログに手が回りませんでした。


昨年とは違って常駐現場をもたない今は、埼玉や神奈川で、数日ごとに別の業者に付いて、主に土木工事の現場で交通誘導をしています。
土木とはつまりインフラ整備のことで、電気・上下水道・ガス・道路舗装など、日常生活を成り立たせる基盤となる工事です。


このうちわが警備会社で依頼が多いのはマンホール洗浄などの下水道で、次いで道路舗装やガスの仕事が随時あります。これらは工事箇所が国道や県道にかかることも多く、その時は検定資格者が必須なため、フリーで動ける私などがおのずとリーダーまたは単独で入ることになります。


一日に何ヶ所も回るマンホール洗浄や点検等の場合、作業時間は短いのですが、行く先々で、車から降りてすぐ初見で現場の道路状況や信号・枝道のありようをつかむ必要があり、緊張します。かたや、工事看板を立てて通行止めにする場合も、一方通行との絡みで迂回路が入り組んでいる場合など、一般車への説明自体をいかに短く明快に伝えるか、いつも頭を悩ませます。


そのさい、相方となる隊員の出来いかんでは、状況をわからせるのが一苦労で、こちらが駆けずり回ったあげく相方を看板脇にまで連れていかねばなりません。実際、迂回の説明が全くできなくて出禁になった者もいます。


現役警備員が書いた話題の本、その表紙絵のような『ヨレヨレ』の交通誘導員はわが社にも数名います。特に私が所属する営業所(本社ではなく支部)は研修さえ受ければほぼ誰でも採用してしまうため、高齢者ならまだしも、一般人として到底通用しないレベルの猛者が時々現れるのです。すると隊員間でたちまち評判を呼び、どこどこの現場で奴がこんなことをやらかした!と情報共有されて、それが何度も続けば急速に持てあまされていきます。


もっとも、かく言う自分だって5年2ヶ月前に採用された時には、46歳にして職歴は非正規ばかりでスカスカの孤立無業者。前年公共職業訓練で取った介護職員初任者研修すら職場で活かせなかったポンコツで、終始おどおどしながら警備デビューしたわけです。但し、まっさらな新人として真面目に取り組む姿勢が好感され、端役としてあちこち回るうちに場慣れし順応していきました。


ここ2~3年で顕著に変わってきた会社の傾向としては、ダメな隊員への風当たりが以前より強くなったと感じます。
よほどの不祥事を起こさない限り、一度雇った隊員を会社でクビにはできないのですが、目に余る無能やだらしなさを一向に改めない隊員や、ベテランであっても動作や注意力があまりに衰えたりコミュニケーションが取りづらくなった人は、各現場の隊長格から管制に報告されて、行ける現場が急速に狭まります。特に繁忙期が終わるこれからは交通誘導の仕事自体が少ないため、シビアな淘汰の始まりです。


また隊員のなかには、嫌いな同僚や監督がいる現場、遠すぎる行き先などをことごとく拒む、選り好みの強い者もいますが、そういうのにも仕事は来なくなります。昨春コロナ禍でシフトが激減した職種が多く出ましたが、交通誘導の場合、3月は週5で呼ばれても4月は仕事が3日だけ、などよくあることです。


誰でもできる最底辺の仕事、とよく言われますが、じつはそんな見方は、現場では徐々に変わってきています。特に、大半が十年選手で建築現場常駐経験者の多いわが警備会社(本社)では、解体や新築工事の工程や建機に詳しいベテランが多くて、他職や監督と対等に綿密な打ち合わせができるし、相互にリスペクトが感じられます。


私自身の実感としても、検定資格者として隊長を張った建築系の常駐現場ではどこでも、他職の親方と遜色なく扱われました。とあるマンションの大規模改修工事では住人向けのお知らせに、監督以下職長の1人として写真とメッセージ入りで、工期いっぱい掲示されていました。


要は警備員であれ、職業人として出来ていればOKなのです。世間に根強い賤業イメージは、実際だらしない風体で漫然とその場をやり過ごして日銭を稼ぐだけで通った時代の遺物でしょう。


たしかに、曲がりなりにも有名大学を出て高い志を人文系学問に求め続けた者の現在地としては、場違いや不本意な思いはあります。でも、一片の糧にもならなかった戦後ドイツの戦争責任問題だの20世紀の様々なイズムや文学概念だの、実社会を生き抜く上で全く不毛な死に学問に絡め取られた引きこもり・孤立無業者としての大失敗から、心機一転、活力と視野の広がりを掴み取るに至った交通誘導警備5年の収穫を、最底辺などと蔑ろにすることは私には決してできません。

≪心に春が宿るとき 〜花見に思う回復の記〜≫

現場復帰からはや3週。


首都圏はおおむね好天続きで、防寒着必須だった吹きっさらしの冬晴れの合間に、時として穏やかでうっすら汗ばむほどの陽気が立ち現われるようになりました。


私にとって最も心に適う、密かな喜びの時節到来です。


社会復帰以前の、恥と失敗の歳月を別にすれば、有名私立中合格の12歳や、回り道して大学入りした20歳の春がそうでした。また30代以降、コミュ障ながら幾度かの非正規雇用下で持ち直していた頃の、春の陽気に誘われて出向いた登山や海岸ハイキングの思い出がそうでした。


安堵感や充実感と結びついたその開放的な心象風景は、引きこもりや孤立無業期の虚しい記憶を一掃し、長年愛聴し続けている交響曲交響詩のようなみずみずしい楽想のうねりを胸いっぱいに呼び覚ますのでした。


以前のブログでも記したように、45歳にして社会的再生の契機となった就労準備支援が始まったのも春でしたし、交通誘導警備業務2級を受けたのも春。初めての常駐現場隊長(ドーミーイン後楽園建設工事)を全うして、かつての就労支援員にお礼に伺ったのも春でした。


そしていずれの風景にも、時どきに咲き誇った花々の印象が興を添えているのが特徴的でした。(≪見越入道⑲≫・≪半年後に咲く花々②≫参照)


残念ながら昨年来、季節の風物詩だった花見の宴や庭園散策・鑑賞の催しは軒並み自粛を強いられました。たしかに、大勢で出向いての飲めや唄えだの、殊更にライトアップしての集客だのはもともとあまり好ましいとは思いませんでした。しかし、花を愛でる心自体は広く普遍的なものだと私は信じています。


そこで、思い出深い実例として、コロナ以前の体験の中から、2019年4月、2度めの韓国一人旅での花見の光景を振り返ってみたいと思います。


ソウルから南へ1時間ほどのスウォン(水原)。
水原華城という李氏朝鮮後期の一大城郭へ出かけた日のこと。世界遺産として人気も高く、城壁を踏破して華城行宮も丹念に観て回ると丸1日かかります。


私は八達山とよばれる西寄りの高台へ城壁に沿って登り、思いがけず満開の桜が咲き誇る車道に出たのですが、若い女性を中心に結構な人出で、何やらイベントが開かれていました。その場でははっきり判らなかったものの、横断幕のイラストや寄せ書き、キーワードから読み取れたのは、いわば敬老キャンペーン。京畿道の認知症センターによる、老齢者への感謝と愛を呼びかける催しだったのです。


でもいち日本人の目から見れば、行き交う人の大半のまなざしや華やぎはまぎれもなく桜の花見の光景でした。歩くにつれ眼下には行宮や市内の街並みが広がり、ひときわ目立つ教会の尖塔や、のどかに浮かぶ白い気球…。


よく見ると沿道には桜ばかりではなく、園内の黄色いレンギョウの花も満開で、モクレンの木も鮮やかな紫の花をいっぱいつけていました。


いずれも日本でごく普通に見られるこの時期の花々。ツツジもそう。でも社会復帰を果たし、念願の海外旅行を実現したその足で訪れた予期せぬ出会いには、何か沁みわたるような自己発見がありました。そしてこの穏やかな喜悦が最も自然にこみ上げてくる時節こそ、私にとってはほかならぬ春の到来なのでした。

≪熱気と虚名は要りません≫

胸の奥の違和感や空咳がほぼ解消しました。


仕事復帰から12日が経ち、埼玉・神奈川の道路工事と湾岸エリアのメディア施設とで、計9日間通常勤務しています。


この時期の交通誘導といえば、例年3月いっぱいまで繁忙期でした。私が入った5年前からみても、一昨年までは、管制から連日「人が足りない」の悲鳴があがり、ただあたま数を揃えるためだけに、現場で全く通用しないような隊員もお構いなく送り込まれてくるのが常でした。


しかし昨春に関しては、3月も半ばで早くもピークアウト。私ら建築現場常駐者や資格者・隊長格は別として、コロナ禍で皆に仕事が行き渡らなくなりました。さらに五輪延期や6~7月の長梅雨で稼ぎが目減りした人も多かったようです。


今年は多分それ以下となるでしょう。なぜならここ数年続いたホテルやタワマン新築ラッシュが完全に終息し、五輪も潰れて、会社に割り当て予定だった関連施設の駐車場警備等もなくなる公算が高いからです。

    ☆

ところで話は逸れますが、私はそのオリンピック自体に昔からかなり冷ややかな人間でした。もともと陸上と水泳の一部しか観なかったし、メダルにもアスリートにも興味無し。さらに2000年シドニーで露わになった、多様性の名のもとに特定の少数者属性をことさらシンボル化して前面に押し出すプロパガンダには反感を覚えました。日本でもそうでしたが、すでに前世紀末から経済苦境や失業・就職難等で自殺者も激増しているのに、メディアは、アスリートも含めて何か特定の属性の者に無上の発言権を与えては偽の正しさに舞い上がるばかり。翌年9.11同時多発テロが起こるまで、国の内外で行き悩む無数の一般の困窮者達に目を向けることなど絶えてなかったのです。


また、五輪の規模や競技数をむやみに拡大していく傾向にも私は一貫して反対でした。野球など最たるもので、その普及率の低さといい、出場選手の多さや試合運びの遅さといい、五輪とはことごとく相容れないリーグ戦型の集団スポーツとしか思えなかったのです。まあ他にもゴリ押し的な競技はいくつかありましたが…。

    ☆

ともあれ、東京五輪の前途は私ら末端の警備員にもそれなりに影響が出る問題です。コロナ疑いの肺炎症状で3週にわたって寝込んだばかりの身としては、とにかくこれ以上感染リスクを蔓延させないためにも、五輪などまっぴらご免です。さらに、コロナ対策については昨年来、欧米メディアの論調を決して鵜呑みにしてはいけないと痛感しました。彼らのどの国も断じて模範例ではなかったからです。

≪19日間休んで痛感したこと≫

寝て過ごすだけの日々からやっと再起動できました。


・工事現場の大残業による喉の炎症悪化。(1/7)
・声が全く出なかった3日間。緑色の痰。(8~10)
・声が戻るのと引き替えに、胸の奥へとわだかまる息苦しさ。痰は淡い黄色。(11~14)
・買い出し散歩以外寝ているしかない状況が長引き、生活リズム崩壊。肺炎の症状、胸苦しさ続く。(15~21)
・仕事復帰の見込みは立つも、体力弱り生活リズムが戻らず、やりきれない鬱状態に。(22~26)
・会社から急遽体調不良資格者の代役を頼まれ、予定前倒しで出勤。そのまま勤務再開。(27~)


このような経過をたどった次第です。発熱は初日だけで、味覚障害はなしでした。


このかん、首都圏を中心にコロナ感染者の急拡大と自宅待機療養者の増大が報じられ、まぎれもなく渦中の1人だと思いました。でも感染者認定されて周囲を道連れにすることは絶対に避けたかったので、病院や検査にも行かず喉風邪で押し通して時間をかけてでも自力で治す所存でした。


結局肺炎の名残りの空咳は完全には収まらぬまま、今週は4日間、明けて来週以降も週5日以内に抑えつつ働くつもりでいます。


それにしても、喉風邪にせよ何にせよ、一回の体調不良で2週間以上も寝込んだのは生涯初めてでした。加えて、スマホで目にする情報・報道たるや五輪とコロナですっかり荒廃し、ただただ不快なだけ。


もしかつてのように失業中の孤立無業者だったり、いやさらにはるかにぶざまな長期引きこもりの身だったりしたら……。


想像するだに耐えられません……。


現場に出てまず隊員や監督、職人などに挨拶し、朝一の出だしの工事規制帯や搬入車両対応などにキビキビと立ち回る。その緊張感がこれほどありがたく、前夜までのグダグダなうんざり感をものの30分で忘れさせてくれるとは。


働くってこれなんだな。端的にそう思いました。

≪長引く蟄居の日々・続編≫

年初めから喉を痛めて肺炎の症状に至り、仕事を休んで自室で静養すること2週間になります。


折しもコロナ感染者数急増の報道が続く中、できれば医者や保健所へ行かずに治すつもりでした。最近やっと咳も痰もかなりおさまってきましたが、なかなか完治はせず、交通誘導への復帰は次週に持ち越しとなります。


喉を痛めての風邪自体は、身体の細かった20歳頃まで冬場は毎年恒例でした。その代わりつらくとも5~6日養生すれば必ず良くなる経験則がありました。しかし今回のはやはり抜きん出て悪質なようです。治りません。


朝晩必ず買い出しを兼ねて外歩きはしましたが、寒さもあって自室に戻ると結局布団に入り込んで寝てしまう毎日でした。あたかも無業・引きこもり時代に舞い戻ってしまったかのようです…。会社には1/10の時点で2週間ほど休むと伝えていたので見通し自体は的中でしたが、実際に独りぼっちで身体の不調と向き合う日々はメリハリもなく、その停滞感たるや半端ない虚しさでした。


そんな折、気がついてみたら、警備員となってからちょうど5年が経っていました。


厳密には、1年めの夏に登山中の滑落事故で丸1ヶ月棒に振ったぶん、実労5年はもうひと月先になります。しかしその大怪我を筆頭に、下手すれば失職・自滅に至ったかもしれない荒波を幾度も乗り越えてきた経験は、職歴としての年数以上に確かな自信となって今の私を支えます。


3年余り経つ当ブログもまた同様です。中高年無業者・文系大卒行き詰まりからの立ち直りの一例として、所期の役目は既に果たしたと思います。もともと時事論争型の書き手ではないことを踏まえてツイッターではなくブログにし、あくまでも交通誘導の現場での試行錯誤の跡をメインに綴りました。また、仕事や貯金を通じて遅ればせながら実現・達成できた事などは進んで前面に出すよう心がけました。資質的にも、趣味の登山のように本来開豁なものが好きなので、内気な人にありがちな過去の心的外傷とか差別とか、歴史問題・社会批判とか、そういう所にこだわるタイプの発言者にはあまり近寄ってほしくありません。


なお、体調が回復して仕事に戻ったら、少しブログの体裁を変えてリニューアルすることも検討しています。警備の5年間を経て社会的ブランクこそ克服できた今の私ですが、ネット上でのスキルに関しては依然として初歩的なレベルから脱却できずにいるからです。教示してくれる人が身近にいればいいのですが、警備員には見当たらないのが残念です。

≪罹患…長引く蟄居の日々≫

年末年始の出先のどこかで風邪をうつされたようです。


コロナと言わず風邪としたのは、当初体調の異変が従来の喉風邪の経過に似ており、味覚異常も発熱もみられなかったからです。


1/5に提出物のため都内の警備会社本社へ顔を出した帰り道、電車の中で突如悪寒とめまいがし、下車して呆然とホームにへたり込んだのが発端でした。


7日に喉の不調をおして神奈川県内のガス工事現場へ出たところ、2日工程を1日で済ませると言って夜まで続く突貫工事。夕方気温が急低下するとともに喉の炎症が悪化。声は潰れ悪寒が止まらず腹も下すというボロボロの状態で夜9時過ぎまで立ち会った結果、帰宅は0時寸前。命にかかわると悟り、震えかつ詫びながら会社へ無期限の休みを伝え、そのまま寝込んでしまいました。


それから10日…。


3日間全く出なかった声は、普通の会話レベルなら無理なく出せるようになりました。発熱も味覚障害も依然としてありません。
しかし、肺炎の症状は残ってしまいました。


折しも首都圏新規感染者数急増の中、ここで感染者認定されて警備の仲間を巻き込むわけにはいきません。一般隊員に加え、年末年始は管制/管理職とも一緒に仕事をしていたからなおさらです。そのため、未だに医者にも行かず、風邪薬のみで静養していますが、たまにこらえきれなくなる咳や黄色い痰、胸の奥にわだかまる息苦しさなどは、まぎれもなく肺炎の典型だといえるでしょう。


昨年はコロナ禍を免れて仕事に専念できた充実度の高い1年でしたが、今年は一転、当分仕事に戻れないばかりか、下手すると容態急変でこのまま帰らぬ人となるかもしれません。


とはいえ、身体が弱っては交通誘導の仕事に復帰できないので、10日からはできるだけ日に2回は(買い出しを兼ねて)歩き回るように努めています。昨日などは通勤時間帯に合わせて片道1時間ほどのカラ出勤を試みました。が、土曜なのに猛烈な密なのと、車内で息を凝らす苦しさでまだまだしんどく、仕事復帰は当分先だな、とかえって意気消沈してしまいました。


いずれにせよ、当ブログ『四時歩武和讃(しじほぶわさん)』はまだ道半ばです。
この表題をライフワークの総称として掲げ、今後また自作詩篇の改編・増補・集成に努めるつもりでおります。
それまでは、専ら一警備員として、社会的ブランク克服〜職業人としての自立と生き直しをつづる手記として読んでいただけると幸いです。

≪わが身人混み怯え気味≫

交通誘導の2020年が終わります。


厳密には、今夜から都内の大きな神社で駐車場警備が始まるのですが、それを除くと、年間の勤務日数は自己最高の292日に達しました(大半が早出残業込み)。
完成までのイオンタウンふじみ野と、神奈川県内のガス工事現場とで、年間通して週6日ペースを続けた初めての年となったのです。


前年、肉親との懸案事項が片付いて身軽になり、一方で今年は海外旅行ができないため、結果的に仕事本位の生活となって大幅に貯金を増やすことができました。


家賃の安いアパートでテレビも冷蔵庫もパソコンも持たない簡素な生活を続けること4年。でも身の回りは小ぎれいにし、支払い期日は堅守、クレカもゴールドカード。相変わらず山も登りに出かけます。


コロナ禍で人生が暗転したり、無業や引きこもりのまま完全に詰んでしまった人も多い中で、警備5年目の私は、時に仕事を全うする厳しさを思い知らされつつも、いま自分は正道を歩めているのだ、という充実感で身の引き締まる思いがします。


先日、都区内で生活困窮者の越年相談が催され、巡回警備に就きました。よく報じられるNPOなどの炊き出しの公園とは違う、下町の地味な一角でしたが、朝から集まってきた80名ほどの人々は(顎マスクも多いけれど)それなりに秩序は守り、自暴自棄なふるまいなどはほぼありませんでした。


しかし大晦日にして、都内の新規感染者もついに大台を突破。それでも、深夜から正月三が日、人混みの傍らに立ち続けなければなりません。嗚呼!21年は少しでも良い年になるのでしょうか?