四時歩武和讃(しじほぶわさん)

〜立ち直りから精神復興へ。一警備員の手記と詩篇~

≪この夏、きっぱり決意したこと≫

しばらくぶりの更新です。


医大病院の新本館工事はいよいよ大詰めに入りました。
建物内は床材も敷かれて全員上履きで移動します。
また、トラックの搬入経路も徐々に狭められ、大型車は通行不可。一方、各階内装工事で大量に使用した立馬・天台・台車や残材の搬出車両が主に4t車で日に5、6台ずつやってきます。


この夏は6月中から異常な猛暑に見舞われた上、アパート自室のエアコンが故障していたため、交通誘導の日中はもとより、夜間も体が休まらず、お盆前までなんとか体力をもたせるのがやっとでした。


それでも、お盆期間に友人と2年ぶりに登山できるのを楽しみにしていたのですが、台風接近予報のため中止。
北アルプスはやめて、独りで新潟の平標山〜仙ノ倉山へ登り、1日で真っ赤に日焼けしてきました。


さて前回のブログ以後の2ヶ月半で、現場の光景も大きく様変わりしています。たとえば、完成間近の新本館と、現在の病院本館とを結ぶ渡り廊下状の建造物が新設されました。これは病院機能移設のさい、へその緒のように中を通ってスムーズに機材を新館側へ運び込んだり、病院職員の夜間の移動などに使われます。


また極めつけは、6月まで私が1年以上仕切っていた搬入メインゲート前です。ヘアピンカーブ状の急坂続きだった舗装道路が、豪快に壊され、深掘りされて、治山工事さながらの堰堤と化し、建物まわりの残存物や埋設配管も逐一解体撤去された挙げ句、地形そのものが一変してしまったのでした。


現場周辺に久しぶりに来た人はしばし茫然とします。なにせ完成間近の純白の病院正面口(建物全体は淡いベージュ色)のすぐ傍らでは大型重機がガタガタ暴れ、はつりや溶断作業で火花や粉塵、打撃音がもの凄かったからです。しかし先月、道路工事業者の詳細な図面を密かに見たところ、昨年の時点でこの一帯を均して救急車専用のロータリーにすることは綿密に了解済みでした。昨年来私がゲート前で車両誘導中、墨出し屋と呼ばれる測量士が時たま現れては至る所の古壁や斜路に線や記号や数字を書き込んでいたのも、今となってようやく、周囲の高低差や道路拡幅の形状が現場でピタリと符合します。その構想力と深謀遠慮ぶりには伏線の回収にも似た震えるほどの感動を覚えました。


いま私は、早出と残業時間を除いて搬入出車両の誘導を他のメンバーらに任せ、この一連の外構工事のそばに付いて車両誘導しています。交通誘導警備の仕事に入ってもう6年半あまりになりますが、経験10年以上の隊員が大半の当社にあって私にいささか取り柄があるとすれば、建築現場の作業内容を絶えずトータルに同時並行的に把握しつつ自らも率先して動けることだと思っています。


もちろん、一般に交通誘導といえば、まず道路工事に伴う片交(片側交互通行)と歩行者誘導がメインの仕事となります。でも私はビジネスホテル・大型ショッピングモール・大学病院と主に3つの新築現場で隊長を務めた経緯から、ブログでも記したように、建築現場のありようをオーケストラの総譜になぞらえ、多様な職種間の絶えざる段取り調整や、ミスの赦されない精緻な揚重作業や計画自体の壮大な構築性にとりわけ感銘を受けてきました。それはかつて私が多大な歳月を無駄にした人文系学問の党派性やチンケな反骨精神とはまるっきり違う、本当に技術を磨いたプロどうしがガチでせめぎ合うからこそ前へ進める、文字通りの建設的な姿勢に他ならなかったからです。


そんな思いは昂じてこの夏、私はもはや同時代言論へのアプローチを一切断ち切るところまで行き着きました。つまり私は、大学以来足かけ30年にわたって、ひきこもりや無業者の時も非正規雇用の時も、新聞・図書館・ネット上で人文系の言説空間に何か価値ある内容や信頼するに足る知識人を切に望み続けてきたのですが、ついに叶わず、先の元首相銃殺事件を機にますます憎悪と侮蔑で総崩れの言論状況を見て、もういいや、と根本から心が折れてしまったのです。


ブログはまだ続けます。四時歩武和讃『オラトリオ ハノイの塔』の筆者として、何も自分が引き下がる必要はないし、一介の交通誘導警備員だからと無闇にへりくだる必要もない。
むしろ、いまや職長として働く充実ぶりを励みにして、言論人・知識人の遥か圏外で自分を律して思索しながら志をかたちにしていければ、と思います。

≪七百人の交響曲≫

医大病院新本館工事、あいも変わらず出ずっぱりです。
ブログを綴る余力も残らぬほどに。


日曜以外、結局5/3·4·5しか休めずじまい。現場にはいつも始発バスで向かい、着いたら6:30にはゲートを開ける、その繰り返しでした。


建物自体はもう出来上がりました。ひと頃は作業員総数700人を超え、いまも各階で内装・設備・電気などが多数の下請け業者を動員して病院ならではの複雑な部屋割りを入念に拵え上げています。ちなみに、資材の運搬は本設のエレベーターを養生して主にフォークリフトと人の手で行っています。


すでに3月以降、屋上のタワークレーンは4段階に分けて解体・小型化・搬出され、工事用の仮設エレベーター2機も5月に取り払われました。その後のクレーン作業は、建物周りで旧い配管を撤去したり防火水槽を埋設したりする外構工事がメインです。

   ☆

さて、川崎市内のこの医大病院は、医学部の建物ともども丘の起伏の上に建てられています。新築中の新本館に至っては、建物の南面と北面で17m近い高低差があり、車は北側からなら1階に着きますが南ルートへ回れば4階に到達することになります。


現在、その4階へ通じるスロープの道路工事が続いており、路肩の補強、敷鉄板の撤去、路盤の整備、側溝や蓋の取り付けが終わって、近日中に一気に舗装する流れになっています。この構内道路が開通すると、これまでメインの搬入動線だった私の立つ工事用ゲートは役目を終えます。そこから急坂を2段上って保育園へお子さんを送迎していた仮設道路が要らなくなり、道幅の広い南ルートの新舗装路で保育園へも新本館(4階)へも直接乗り入れできるようになるからです。


昨年3月下旬に急遽この現場の隊長・職長となってこのかた、14ヶ月以上にわたって搬入ゲートの顔となってきた私。まだ建物の基礎部分すら固まっていなかった当時から、ゼネコンの現場事務所や朝礼広場から歩いて来る作業員の通用口となり、朝夕は病院·医大·保育園関係者の通行も見守り、時に施主や来賓の巡察を出迎え、何より12階建ての外観がすっかり出来上がるまで、定期健診の1日を除いて全日程1人で切り回し続けたゲートでした。

   ☆

以前の現場でもそうでしたが、私はこの警備の仕事でまさかの社会復帰を果たして以来、建築の段取りやインフラにかかわる他職の仕事内容を、つとめて広く知ろう、目に焼き付けようと意識してきました。


もとより私の父も一介の間仕切り職人でした。にもかかわらず、単に子ども時代の成績だけで私は有名私立K中から東大→社会的エリートという一本道に視野を狭められ、その純粋培養の袋小路で闇雲に反発・暴走した挙げ句、東大はおろか何一つ目標設定し得ないままかなりの年月無為無策の孤立無業者に甘んじてしまったのです。


それに比べれば、いまたとえ底辺職と見なされようが、警備の仕事を通じて社会を下支えしているさまざまな現場仕事に目を開かれるなら、それは願ってもない役得ではないか、と思えました。


世間は嗤うかもしれない、齢50にもなって社会のしくみがやっとわかってきましたなんて、お前どんだけおくてなんだよ、と。


でも社会的に立ち遅れた長期ひきこもりとは概ねそういうものなのです。


私の場合は幸い、当ブログやプロフィールでも触れたように、人文学的探究心や趣味の登山など、成人後に現れた本来の稟質が支えとなって、長期ブランクの失意や恥辱感から健康的によみがえることができました。


あとはこの新本館工事のごとく、無数の手業と錯綜した工程の集大成となりうるような、規模闊達な『七百人の交響曲』をいつか私自身の手で構想・制作できるかどうか…。


『オラトリオ ハノイの塔』に続く、第2の四時歩武和讃集を、警備の仕事と並行して詩作できたら幸せです。

≪生誕10年、オラトリオ再掲⑤≫

オラトリオ ハノイの塔

              刻露清秀
 Ⅴ部

   16

時つ国を望みつつ
日択りの海をゆたにたゆたい
販路を拓き、水運を増す
かの波乗り船、弥栄なれと。
異国にあっても十組問屋は
あらゆる時代の箱書きが
渡海造りと組積造下で
列を成し、色をなして詰め寄る所。
霧は野づらを撫で
市街地には琺瑯を引き
組香に供せられる舟また舟
晴れていれば無数の桂林がそばだつ偉観、
陸封を解かれて多士出ずるとき
帆にはつまびく、箜篌またリラを、
どよめくばかりで手だてのない地へ
治世の夢とはさても作り置きできないゆえに。


   17

沿岸には多くの奢侈が名を連ね
虫歯の村は朽ちてなお野に晒される。
一切を見渡す氾濫原から
養殖の保護区を越えて外洋へ出れば
舳先に立つ競い肌は
渦としぶきで目もあてられず
無辜の寓りは石群に似て
甲板の斜度と寝起きを共にする。
計器類には徳目を並べ
すべてのジャイロは動く魔方陣
蒸気機関から無量光まで
馬力と他力にかしずかれつつ
それでも遠来行き交う魂魄
心ならずも奴隷船籍、
感傷の器を満載し
せり出しやまない棚氷のように
夢中で手を振り、手を差し伸べる、
手続きのない港を求めて。


   18

投げ縄も投網も錨も届かない
まさぐるような減音程より
サメはひとすじのコラールを追って
島々の基を十度さまよう、
儀仗が入れ替わるたびに
怒涛の血汐が水揚げされる
海流どうしのぶつかりの中で
珊瑚の春から墓標の冬へと巡る舞台に
吐きつ戻りつ、またぞろ銛の致死量を浴びて。


知識層は堆積・風化し
誤謬の年代指標と化すも
静かな海に腹這う者は
さらなる時の濃集を待つ。
深海底にも松煙が噴き上がり
カニや貽貝の苗床となるように
地底の眠りを揺り動かすのは
粘性と恩寵の融合に他ならないからだ。


   19

波を焚く殷雷、陸の強者は座屈を恐れ
前途は大灘、海の隼人は壊蝕を恐れ
火の粉に彫り上げられた峰容
洞門に光を満たす海抜の原器、
地涌にすら飽き足らず
暮れなずむほどに遠き交わり、
なべて保冷し備蓄し格納する庫(くら)
僅差で照らされ、二瞬に浮かぶ、
船にはたつき、見送る浜には磯馴びと。


全訳が成れば抄訳は廃れ
口割れのない賜物にこそ
受領の印が押されるように、
生き別れた者は互市場に集い
授記を門出にのびのびと泳ぐ、
もはや負荊を気に病むことも
汚い遺恨の取り立てもなく、
福音のあとには思慕する手紙が
論には釈が灯(ひ)を嗣ぐように。


     ≪了≫

≪生誕10年、オラトリオ再掲④≫

オラトリオ ハノイの塔

              刻露清秀

 Ⅳ部

   12

雲表に浮かぶ暦法
懸隔を測る桟橋
光沢はしじまに運河を曳いて
聖俗の衣は交わり、黒白の頭は流れる。
営巣地には春秋の喜び
原産地からは黄熟の便り
久しく住所を逐われた土地にも
行政を回復するとの報せ。
花々はすずろに色を分かつも
人は親子で足を止め、
塔楼は異なる時を告げるとも
堂宇は密なる聖多胞体、
制空権をもつ海鳥は翔り
播種は発芽の身なりで伏(ふく)し
吹青の甲羅はかき分けて進む、
実の涙も腹違いの涙もないまぜの御代に、
陸海空針、クロノロジカルな昏暁の彼方に。


   13

焼成由来の部材を組んで
打ち立てられた城下の家並み、
炊きあがりの釜を覗きこめば
吹きこぼれる花言葉たち、
日に焼けた街と美白の里は
なりを違え、則を違えつ、
琵琶を連ねて永らえてきた、
霓裳羽衣と 菩薩蛮とで。


まことしやかな空撮の背後に
計り知れない下世話が眠り、
愚にもつかない遺制の陰で
倶に焚かれて炎色を放つ。
それぞれの時代の勲と流謫と
浮かべてはほどけ去る酒中花に似て、
ただ水を切って飛ぶ二片(ふたひら)のみが、
沈みゆく市街を端から端まで渡ってゆける。


   14

仕切岩だらけの洞窟の果てには
人を石筍ならしめてやまない
贖罪のアトリエ、追善のテーブル。
蠟涙と血手型と
鞭打つばかりの雫に溺れ、
泥の名誉が封泥であるように
満面の恍惚は解かれるすべを認めなかった、
語彙の光も射さない地所で。


だが函人が甲冑の内なるクレドを象るように、
陽は半島を朱(あけ)に染め、
詩出ずる民は預言を通じ、寓言を通じて、
機微を釣り上げ、泥線を漁る。
さざ波に香料を振りかけ
氷嚢をして寒剤たらしめる海に、
ふた回りほども歳の離れた
遊行と嗣業、二隻の乗を巡り会わせて。


   15

『第九』も『受難曲』も響かない
数万年裏の世界氷河に
フラットではなく皆前趾足で
処女地への心技を刻む巡礼の体、
雪上確保、懸垂下降
選び取られたそのルート図は
もとより定本も完本もなく
抄紙と瀑布に満ちた前表。


掌の大きな樹々が極彩色の扉を開き
盤根錯節がぬかるみにへりくだるように、
クレヴァスの下にはオルガンの水琴窟と
氷宮に差し戻された歴代の巨象の献体
観瀑台はおのずから新たな詞牌を生み、
詩篇はほとばしる、練り清められたモテットとなって。
ピラミダルな座は前途に雨裂と雪襞を課すも
御名のフーガはあざなわれつつタクトの稜で合するように。


   (次回はⅤ部)

≪生誕10年、オラトリオ再掲③≫

オラトリオ ハノイの塔

             刻露清秀(2022年版)

 Ⅲ部

   8

時に義人は知る由もなく
天上に諮られ、賭けられてきた、
友も助言者も誘惑者も
アイスフォールに隔てられ、
離反と懲らしめ
涵養域にもいつか擦痕が顕われるように。


人は喘登を自負する限り
激しく飢え渇いているように見える。
だが斥鹵の村にも音信(おとずれ)はあり、
世にはばかるほどの渇仰があった。
初発心時を獣骨に刻み、貝葉に刻み、
綴り合わせて開眼となすように、
主稜線にも日時計が延び、鴃舌を照らす、
葬送のあとの陽炎、まばゆいばかりの風樹の谷に。


   9

雨季と乾季が自生を促し
砂地に裸足の実生が溢れ
影と風とが混ざり合うとき
みつばちたちのくるぶしは癒えた、
授粉とはことづけることだから。
生命の束を崖に残して
遺恨と封鎖の対岸へ渡り
身を低くして作戦を待つ
一線を越えた葦のはたらき。
だが何の恐れることがあるだろう、
焦がれる者はどのみちいぶし出されるからだ、
雪煙から立標に至る
二国の狼煙と燈炬を守り、
飛び地を含むすべての領域(さかい)が
肥沃であり続けるために。


   10

灼けつくような造営のさなかにも
賦役者は思いめぐらす、
翼の陰に宿る布陣を。
昼は熱沙の彼方に揺曳し
夜は焚火の周りに隠映し
尊厳の遺鉱を ひ押しして
そこでは被疑者被験者の名も
からしめることはなく
驕らしめることもない。


水張りのうてなに顔を寄せ合い
敷居のそばに寝相を並べ
波音を模し、光葉をかき分けて
人はその未分化な憧憬を
来たる馴化の課程に寄せる、
佯狂のすだれを巻き上げるたびに
いきおい不敵な威信を帯びて。
灌漑は石柱と燭台への道、
実りは生死をまたぐとも。


   11

粘土に尖筆、砂手習から
天文密奏審議録まで、
巧暦募集の求人に始まり
智慧の館に到る王道、
数理数略の労をいとわず
時に遺題を承継しながら、
すべての学侶は施主のみもとへ、
無数のタイルが蒼穹を織り成すように。


バザールではどんな数でも鮮魚よろしく
手鉤一臂で運び入れられ、
目早いせりと身の切り分けと
読み上げ算と検算を経て
氷とセットで即売された。
ユークリッドの交通法規
アルキメデスの度量衡、
普遍性はとかく天下ろうとする、
だが商人は他の誰よりも公正な秤を必要とした、
海の民、砂漠の民、インドの民との仲介のため。


 (次回はⅣ部)

≪生誕10年、オラトリオ再掲②≫

オラトリオ ハノイの塔

             刻露清秀(2022年版)

 Ⅱ 部

   4

時明かりの中へまろび出る者が
生前陽の目を見ることは稀だ。
視息の窓には塵降り積もり
亡き世に良き名、望むべくもない。
耳を聾するほどの似非オラトリオ、
知り得た者は深山隠れに。
熱に浮かされた向きは毫も問われず
ただ保護色に還るのみだと。


苔に漉され、岩角に漉され、
寂寥に漉され、林床に漉され、
荊榛(ばらやぶ)に漉され、山葵田に漉され、
冬空に点呼一叫、
日が射し、樹皮はひきしまり
恥を負う手は水底に揺れる、
朝積みの雪の下にも
滑らかなつてを絶やさぬように。


   5

陽だまりに見初められ
濃淡に揺れる眼差し、
今に至る遠流
喜びは切れ落ちたまま
夕梵は悲源に迫り、
生来の含羞は晩課にも似て
かがり火さえも闇夜にこわばるすべを知らない。


受益者は耳をそばだてもせず
忘恩は見ず知らずの労を消し去りもする。
だが通い路はやがて営力となり
幽尋もまた通功易事に。
大旅行家は生涯かけて地上に見頃を迎え、
石板は元服と木立の間に
月齢は点眼と空濛の彼方に宿る。


   6

涼を求めて洗い場に立ち
汗ばむ岩の背中を流す
白法白衣の源泉の宿
懸針垂露の旗奉行。


五段飾りのいちばん下座で
かまり立ちを覚えた日には
遡上の跡を氷に鏤み
滝口めがけてピックを振るう。


硯の上で磁石を磨り、蠟石を磨り、氷菓を磨り、
かくて頂稜直下にスラブが創成され
谷底には鍵盤砕きの墨汁が注ぐ。


いずれ劣らぬ みずちのしわざ
流通(るずう)三態、歳時記のよう、
水量翳り、収斂の時至るとも
とどろく口上、錦繍と斧劈の尽期に浮かぶ。


   7

千山は冬毛に覆われ
日々は苗木のようにうずもれ
寝糸の滝には寒声混じりに
見上げればピッチグレードはいよいよ高く、
跡目無しにたどる手鍵盤足鍵盤
先遣の明を照らす後見のもやい
流星痕はつららとざらめを落として消える、
眼下には瞬く間に時流を点綴する夜景。


上顎骨の牙の真下に居を構え
剥製は飛型を競う、連夜の積算寒度、
鉄橋は軋り、背稜に谺し
山上の集落は襟を立てて霧に備える。
寝袋にいては人は一個の部首にすぎない、
コンロや手斧や金石を囲んで友と語れば、
吐息こもごも、謎語画題は夜半に及び
暁雲は面を上げる、臥竜はなお雪安居。


  (次回はⅢ部)

≪生誕10年、オラトリオ再掲①≫

医大病院新築現場にもようやく春到来です。


新本館はもう12階まで建ち上がりました。青いネットに覆われてはいますが、外観上未完なのは最上部、屋上の塔屋と救急搬送用ヘリポートくらいです。先週からは、タワークレーンの解体搬出作業まで始まり、先導車付きのスーパートレーラーは私がバスロータリー前で誘導しました。


さて、この現場に来た私が急な成り行きで交通誘導警備の職長となってから、はや1年が経ちます。これは一つの現場としては自己最長記録です。
2016年1月末に警備員となって以来、特に大きな現場で職長を全うした例として、ドーミーイン後楽園とイオンタウンふじみ野があります。今の医大病院工事もそれと並んで、私の社会適応能力を否応なくグレードアップさせました。例えばいま現場の作業員総数たるや優に500人を超えているし、警備員の数も8~9人で回しています。同じくらい広範囲だったイオンふじみ野では作業員約350人/警備4~7人(一日だけ10人)でした。


規模もさることながら、工事の推移や全体像を把握するために、日々各階ごとの工程の略図を携え、建築用語や搬入資材についての知識も欠かせません。実際、いつも出ている昼の打ち合わせ(朝礼は搬入対応のため出られない)では、場数を踏んだ監督以外では太刀打ちできないほどその道一筋の剛毅な職長らが厳しい意見を忌憚なく出し合い、時にはあとから搬入車両の可否や時間変更について私に意見が振られることさえあります。

   ☆

思えば2017年このブログを始めた当時、≪序文①・②≫などで見るとおり、私の当面の目標は社会復帰と生活自立、そこまででした。
子供時代の極度におくてな性分に由来する有名私立K中高での萎縮やその後の躓き・失敗の連鎖について、もう取り返しがつかないとわかってはいても、実際あまりに立ち遅れてしまった無力感から、社会復帰後のイメージも貧相なまま、その日暮らし目線からなかなか抜け出せなかったのです。


しかし警備の仕事で十分結果も出したいま、少なくともひきこもりや無職の過去は死にました。


わだかまりが残るとすれば、せいぜい、かつて人文知という分野に精神史的な拠り所を求めようとした者として、その方向で何一つ糧にならなかった大学知識人やジャーナリスト、現代文学論者らに対する心底からの軽蔑があるくらいです。


ただ、思い出すのも恥ずかしいかつての自分、親元での無業・失業・泥仕合で行き詰まっていた10年前、私が唯一志と微力を振り絞って完成に漕ぎつけた連作詩がありました。それが、当ブログの初期に1篇ずつ小分けで公開した『オラトリオ見越入道』でした。


もともと知識人教養人のアンテナや読解力に賭けるしかなかった知的密度の高い詩作です。だから無反応でも気にせず、警備の仕事でひとまず生活が安定したら、時間をとって海外旅行などで主題を広げ、ブログを続けている間に順次作品を増補改訂していくつもりでした。


ところが、交通誘導の仕事で大きな建設現場を任される、それも前任者の都合で急な引き継ぎとなるパターンが続いた結果、この2~3年間は切れ目なく常に仕事で目いっぱいの状態になってしまいました。いわば、ゼネコンの新入社員が現場で早々に味わう仕事漬けに似た試練を、私は50歳過ぎて思いがけずガードマンとして経験するはめになったわけです。


そのため、持続的かつ集中的に詩を書くことなど当分不可能となりました。かといって、ブログタイトルを『四時歩武和讃』と銘打っている以上、いにしえの『和讃』の精神を現代に甦らせるくらいの野心をもって綴った自らの探究、オラトリオ詩としての和讃を放置したまま忘却させるのはあまりにも不本意だし無念でした。


そこで、第1稿成立からちょうど10年経つのを機に、ブログ開設当時の2017年公開版から一部差し替えを行った上で、5部から成る連作詩『オラトリオ ハノイの塔』と改題して、全篇再掲載に踏み切ることにしました。

   ☆


オラトリオ ハノイの塔
             刻露清秀(2022年版)
 Ⅰ 部

   1

負の行を重ね
悲の段を積み上げるとも、
時が経ち、人みな居ずまいを正す、地の位取り。
雪渓は点々と微地形を満たし
しぼりたての水普請が岩の根を斫り
隘路は融けて、花期爛漫に、
行き交う人はすすんで道を譲り合う。
稠林限界を越えて初めて目にする光景
それは百年で最も日の長い季節の所産、
歩き疲れて暖簾をくぐる者は誰しも
その荷を解けば稷下の餐に加われる。


   2

岩登りのメッカにふさわしい朝
ミナレットからのコールサインで目を覚まし
ツェルトの帷を披けば、
円屋根に光あまねく
バットレスに人は鈴なり
地の刷毛には海運が連なり
トランペットは義の倍音を吹き鳴らす。
度量のかぎりを晴れて領土と呼ぶならば、
その響きは震旦・天竺・大秦に及び、
民謡からも童謡からも遠い調べで
モニュメンタルな史的奥義を伝えてやまない。
なぜなら真のオラトリオとは
時代病・風土病の蔓延する地へ
異教の富がコーラスを以て入城すること。
時にサラバンドのリズムで桟道を伝い
貿易風のメリスマはずむアリアを歌い
両吟、三吟、異言を胸に
啓典縦走、劇詩を成して逓奏しあう旅なれば。


そこでは部隊もテラスに沿ってピトンを連弾、
崖面を研磨し、天窓から垂れ下がり
おのが支えで友の落下を食い止める。
天井画も智眼も抜けた崩落現場に
確保者として、仲保者として、
修復とは破壊と向き合う化城喩だから。


憎しみや思い上がりや
放埒や沙場の網から解放されて
個はここかしこで応答を願い
地には雅亮が行き渡るように
アリスモイ、カタルモイ
あまたの民、かくも清めて。


   3

那辺を訪い、角々に頌を灯し
疑心庵から耆宿舎へと移りえた人は幸いだ。
釣具・工具・防具を併せもつ港のように
かれは自ら時のオーナー、時翁となって
厳の世にも定の弓を取り
慧の矢をつがえて矍鑠としている。


それはあたかも、専売と施錠の船団
梅の実、ヤシの実団旗を排し、
風媒、鳥媒、幾層杯、
精神のスペルをコンテナに
集散花序の竿頭拡げて
合弁碩才、沖合 屋を重ねる事業。


纜は花綵に通じ
合図は横竪に通じ
吊り上げては架橋する
律令譲りの調律、
桁外れの外観は
内需のインテリアを伴い
その商談はいかなる清談にも増して
風航明備な造讃となる。


さればこそ那辺を訪い、角々に頌を灯し
疑心庵から耆宿舎へと移りえた人は幸いだ。
釣具・工具・防具を併せもつ港に臨んで
かれは自ら時のオーナー、時営者となって
建徳階より塔屋へと昇り
慧の矢をつがえて赫灼としている。


 (次回は Ⅱ部)

≪遅れてきた働き盛り≫

去る年末年始、現場の保安(巡回)警備をベテラン隊員に任せ、私の2022年は2日の山梨釈迦ヶ岳登山で幕を開けました。


6日(木)からは川崎の医大病院新本館工事が再開。
以来、また日曜以外は全日早朝出勤で今に至ります。底冷えの続く夜半から夕暮れまで、構内道路や工事ゲート前にて搬出入車両を誘導しながら、無線機とトランシーバーで各隊員と交信、同時に通話や職長メールで監督や他職と連絡を取り、昼は打ち合わせにも出る、多忙かつマルチタスクな毎日。疲れと寝不足とでブログ更新はおろか、長年の友人と久々に会う約束も3度続けて流れてしまったくらいです。


また、うちの警備会社も繁忙期に突入し、絶望的に人手不足です。なのに現場では折悪しく、ケーブル敷設工事に伴う構内道路の一部通行止めと、迂回路への全車両の誘導が再開されました。


以前のブログにも書きましたが、搬入ゲートの真ん前に急勾配のヘアピンカーブがあります。ここで急坂の上方にある保育園へ向かう保護者による送り迎えの車と、内装工事の搬入トラック、生コン車、大学構内作業車などが踵を接してすれ違うのです。しかも、朝は病院へ向かう急ぎ足の医療関係者や、当現場の建屋に入る職人・作業員の長い列がゲート前を横断します。これだけでも十分気を使うのに、さらに狭い迂回路へ全車両を片側交互通行させるとなると、1台角を曲がるたびに時間を要し、トラックやミキサー・タンクローリーに至っては通過に数分かかってしまい、渋滞を引き起こしたりします。


目の前にそそり立つ新本館建設工事のことは広く知られているので、今さらクレームにはなりませんが、坂の上下から行き交うさまざまな車両に対応してひっきりなしに交信・誘導しているため、1日が終わると本当にクタクタになるのです。


ただ、励みになるのは、工事ももう12階建ての最上階まで到達していることです。建屋の奥へポンプ車を据え、ミキサーを2台づけにして営々と生コン打設し続けてきた9ヶ月にわたる奮闘も、ついに終わりが見えてきました。


さらに先日、搬入ゲート側の足場も豪快にばらされ、4階までの真っ白な外観が一気に公開されました。以来、ゲート前では連日、大学病院関係者やゼネコン本社の人など、来場者の一団が巡察に来ています…。

≪タワーリングボレロ、鋭意建設中。≫

ブログ更新の長いブランク、失礼しました。
何より仕事が充実している証です。


過去には無職の長いブランクがありました。
思えば怯懦と文弱の極みでした…。


その昔、大学のキャンパスは下り坂にあり、
過去に囚われた“死に学問” だらけでした。
逃れるように山へと登りました。
求めても得られなかった、
野趣に富む壮観を求めて…。


いま工事中のキャンパスは丘の上にあり、
搬入ゲートはいずれも坂道の先にあります。
朝は着くなり大型車両の誘導です。
7つの駅行きバスが集うロータリーの真正面で、
そして朝礼後はヘアピンカーブのある構内で。


大学病院の新しい本館を建てる工事、
12階建てのいま9階。
タワークレーンは3基並んでかさ上げされ、
外部足場は周囲の施設と肩を並べる高さに到達しました。


社会復帰とわが新生…
私自身の現状も、いうなれば今そんな段階です。
警備の仕事で積み重ねてきた土台は揺るがない。
求められる技量は3基、
職長として工程全体を見渡す力と、
増え続ける内装業者や監督らとの絶え間ない交渉力、
そして搬入車両が殺到した際の縦横無尽の突破力…。


とはいえ、工期はあと1年。まだまだ長い道のりです。
ましてやここは病院、今後は高価な医療機器の搬入なども始まります。
うちの会社がよこすカツカツの増員メンバーをうまく率いて、
あとひと月半、
週6日早出残業の長きに耐え、
良い年越しと冬山登山を迎えられたら幸いです。

≪雨登山、霧風情≫

岩手山へ登ったのは8/12でした。正確には、11日の終電でいわて銀河鉄道滝沢駅まで行き、コンビニで食料と水を調達して、そのまま徒歩で登山口に向かって歩き出したのでした。


夜通し歩くこの登山スタイルは、日程や宿泊費を浮かす目的で、過去にも何度か試みています。成功例では浅間山噴火口到達や、権現岳(八ヶ岳)登頂があり、夜明けの早い初夏には向いています。しかし車道とはいえ真っ暗な山道を十数km独りで歩くアプローチは休憩所も気の休まる時もなく、正直、登山口に着くまでに気力が萎えて不戦敗したケースのほうが多いです。


今回は、お盆休み中の山の天気がほぼ全滅予報だったので、初めから展望は諦めていました。
ただ、足かけ30年近い登山歴の中で、日本百名山については遅れてやっと50座めとなるため、それにふさわしい山を選んだつもりです。


とはいえやはり天気は崩れ、夜半から容赦なく雨でした。朝方登山開始後も湿気で蒸し暑く、気持ち悪くなりペースダウン。警備員になって以降の登山では明らかに最悪のコンディションです。


唯一救いだったのが、道端の可憐な花々でした。それも、登るほどに、稜線上に出るほどに、群生し、色づきを増して、そのつど写真を撮り直さざるを得ないほど。


湿っぽく吹き抜ける風や細かい霧雨の中で、とりわけ釣り鐘状のハクサンシャジンが、群青色にそよいで目に鮮やかでした。

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8合目の山小屋が見えてくると、自分もやっと元気を取り戻します。小屋番は居たが他にひと気もないので、記念に日付入り手ぬぐいとバッジを買い求め、再び濃霧の中へ。


このあと山頂までの急登は、晴れていれば外輪山やお鉢巡りの大観を満喫できたでしょうが、なんにも見えず、足元のザレた踏み跡を強引にたどるだけでした。似たような火山はいくつも登っているため、地形もだいたい想像はつくのですが。


ただ、この山行中、いちばん美しかった光景は、急登の岩陰にへばり付くように咲いていたイワブクロだった、と思います。ウスユキソウやウメバチソウも端正でしたが、イワブクロの花は粒の細かい水滴に覆われてゼリーのように透き通り、これまでに見たことのない姿でした。

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このあと山頂に達して以降、焼走りコース下山路については、土砂降りすぎて、コマクサの群生に気づいた以外は記憶にありません。警備で使い古したコンビニのレインコートは途中で破れてしまい、全身着替える(服を買う)必要性から、下山後も延々県道を歩いて大更というJR駅にたどり着いたときはもう夕方になっていました。

≪雨は降れども気晴らしに…≫

長らく更新が滞りましたが、仕事は順調です。


弛みない工事状況の進展。職長としての早出・残業を伴うハードな責務。そして日曜以外は祝祭日も全部稼働する容赦ないスケジュール。


通勤時間も含めて生活の全てが、当現場を中心に回っている感じです。


加えて、東京五輪大会関係者の駐車場警備にメンバーを取られ、こちとら減員すら強いられての交通誘導で、余計しんどい日々が続きました。


もともと警備業自体、1964年の東京五輪・選手村警備をきっかけに世に知られるようになったものです。そのためか、うちの会社の管理職も今大会の警備JVに加わったことを2年前から大変喜び、意気込んでおり、一貫して五輪不要派の私はモロに冷や飯を食わされた格好でした。


ともあれ、盛夏の熱中症の懸念を自分なりの対策でしのいで、(特に冷凍ペットボトル飲料。頸部や脇の下を冷やすのにも活用) なんとかお盆休みまでこぎつけました。今年の場合、現場全域が病院敷地内なのでマスク着用厳守な上、6月に隊員から現場第1号の熱中症を出して病院送りとなり、ゼネコンの監督から他職以上にプレッシャーをかけられていたのです。


いわばコロナと熱中症ダブルバインド
お盆明けは残暑に加えて感染爆発の様相に慄きながらの厳しい務めが待ち受けています。


そんな中で、休み中私なりに気分転換することがどうしても必要でした。
そこで、緊急事態宣言下ではありますが、新幹線を使って岩手山まで登りに行ってきた次第です。

≪築き上げていくものと、悠揚迫らざるもの≫

医大病院建て替え工事のプロジェクトにて、私が交通誘導警備の新たな職長となってから、かれこれ3ヶ月余りが経ちました。


このひと月間は新病院棟の躯体工事に集中し、連日の鉄骨建方とデッキ敷きや生コン打設等で4階部分まで骨組みが建ちました。5月連休前には工事ゲート内にまだ土台部分しかなく、そこへ通じる構内道路は解体中の壁やら掘削時のガラ、埋め戻しの跡などで重機も雑然とひしめき合っていたのを思えば、まさに隔世の感があります。


しかしそんな感慨も束の間、工事は絶えず先の工程を見据えて協議が進みます。材料発注や搬入搬出の手はず、業者の手配、工程の手直し・練り直しなどが日夜切れ目なく続いていくのです。実際、毎日行う昼の打ち合わせでは、私も職長の一人として必ず出席します。搬入出車両の確認や、急坂の多い構内道路を大型車両が車底をこすらず通行できるかなど、その場で意見を求められることも少なくありません。


さらに先日からは、聳え立つ3基のタワークレーンの真下で大型車両の乗り入れや転回場となっていた『構台』という鋼鉄製の張り出しやぐらが解体されはじめました。と同時に、ちょうど4階の高さへじかに搬入車両が乗り入れできるようにコンクリの平坦路も造られていて、あと1ヶ月後には搬入動線が切り替わる見込みです。


このように、大規模な建築現場では、1~2ヶ月ごとに工事の局面が大きく変わる節目があります。警備経験5年5ヶ月の私が隊長を務めた中では、ドーミーイン後楽園(2017~18)と、イオンタウンふじみ野(2019~20)で工程の移り変わりと苦楽を共にしました。この医大病院建て替え工事もまた、来年の秋までさらなる紆余曲折を経て完成へとこぎつけることでしょう。


いま現場は常駐隊員がだいたい固定し、見るからにレベルの低い者は淘汰されて、常時7~8名でやっています。GW前の総勢19~20人当時の酷いメンツによほど懲りたのか、その後現場の所長や副所長が、人工(にんく·人件費)がかかりすぎるよ、と私に削減を求めてきたからです。しかしうちの会社も人材不足のうえ、東京五輪警備のため、当現場のメンバーからオリパラ期間中毎日2~3名を引き抜くことになりました。これでもし代わりにダメ隊員をあてがってくるようならば、これまでの私の苦心も水の泡です。


ともあれ、工事の進捗状況やダイナミックな揚重の流れに身を置いていると、日々スマホ画面に浮かんでくる時局的話題や毀誉褒貶記事の殆どがいかに他愛のない、取るに足らないものかを痛感します。また、好悪や政治的立場にとらわれて年々驕慢・偏屈になっていく著名人・文化人らを目にするたびに、社会的には途方もなく出遅れた私(まもなく52歳)のほうが、実ははるかに充実した思索の可動域を持っているのも実感します。
警備の仕事ですり減ることなく、この伸びしろを大切に育んでいけたら幸いです。